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沿革
東京都美術館コレクションの歴史 乙葉哲
開館八十周年を迎えた東京都美術館には、現在十二点の野外彫刻と、講堂の前には朝倉文夫作「佐藤慶太郎像」とジョセフ=アントワーヌ・ベルナール作「舞踏」の石膏レリーフが設置されている。東京都美術館の収蔵作品は長い歴史の中で形成されてきたが、東京都現代美術館の開館にあわせ、平成六年(一九九四)四月一日付をもって同館に移管された。
ここでは、作品収集の歴史と経緯について記しておきたい。大正十五年(一九二六)五月一日に開館した東京府美術館は、美術団体への作品展覧の場の提供を主たる機能としていた。この開館初期から館内に設置されていた作品は前述の「佐藤慶太郎像」と「舞踏」である。
美術館建設に尽力した佐藤慶太郎氏のために、美術団体から謝意を表す記念品が贈られたが、その中に彫刻部有志による胸像の制作と館内設置の計画が起った。朝倉文夫作のこの像は、開館時に彫刻陳列室の階段下に置かれた。その後、昭和二十七年(一九五二)三月十五日に地階北側に佐藤記念室が開室すると、その場に移されている。「舞踏」についていえば、開館当時の一九二〇年代の日本でのフランス美術展に触れておかねばならない。親日家エルマン・デルスニス氏により企画された、「仏蘭西現代美術展覧会」の第一回展が東京、農商務省商品陳列館で開催されたのは大正十一年(一九二二)五月であり、その後十年間この展覧会は東京のみならず、大阪でも開催された。ベルナールの「舞踏」が出品されたのは大正十四年(一九二五)の第四回展である。当時、絵画はオリジナルを展示していたが、彫刻作品は購入者も少なく、その重量や輸送費を考慮し、石膏に抜いた作品が展示され、展覧会終了後に日本に寄贈された作品も多い。ロダンの石膏製の作品も数点が東京美術学校(現東京藝術大学)に寄贈されている。この「舞踏」も原作は大理石で現在オルセー美術館に所蔵されている。石膏による「舞踏」は東京府美術館の開館に合わせて寄贈され、実際に館内に設置されたのは、昭和二年(一九二七)のことであった。その後、現在の東京都美術館が昭和五十年(一九七五)に新館開館した折り、このレリーフは汚れと傷みが激しくなっていたため、ベルナール家の遺族の了承を得て新たに石膏に抜かれ、講堂横の壁に設置された。旧館のレリーフや雌型が現在も東京都美術館の収蔵庫に保管されている。
昭和四十年(一九六五)刊行の「開館四十周年記念 東京都美術館のあゆみ」には、佐藤記念室の新設について、「昭和二十七年三月十五日、美術館建設資金寄附者、佐藤慶太郎氏の徳をしのび遺志を記念するため、佐藤記念室を館内一部(北側二室)に常設展示場として開設、当館所蔵の美術品を中心に、現代美術の理解の基礎となる絵画、複製画、美術に関する図書印刷物その他を常時陳列し、一般都民に無料で開放することとした。」とある。この記念誌の所蔵美術品目録には、日本画二十二点、油絵八十九点、水彩・素描九点、彫刻十点、工芸十点、書五点の計百四十五点が記載されている。佐藤記念室を飾る作品として、いつ頃から収集が始まったかさだかではないが、この目録には昭和二年から二十六年までに「登録」された作品が日本画九点、油絵十七点、水彩・素描一点、彫刻三点、工芸五点の計三十五点が挙げられており、開館当初から恐らく寄贈作品を含め作品が収蔵されていたことがわかる。ただし、「佐藤慶太郎像」と「舞踏」は建物の一部として扱われており、この所蔵美術品目録には記載されていない。なおかつ、当時は美術作品は東京都全体の備品という考えから、この記念誌の所蔵品目録にあってその後に移管された作品も見受けられる。
佐藤記念室の設置により作品購入が増え、東京都美術館の収蔵作品はその数を増していく。当時の職員から聞いた話では、各公募団体の先生方に一律の金額で作品制作を依頼し、先生方も「いつもお世話になっている都美術館さんのためなら」と快くお引き受けいただいたと聞く。昭和四十三年(一九六八)年刊行「東京都美術館 所蔵作品図録」では、データーと写真が掲載されている所蔵作品は、日本画二十五点、油絵百十六点、水彩・素描・版画十二点、彫刻十三点、工芸十二点、書八点の計百八十六点となっている。この所蔵作品図録には「東京都美術館所蔵美術品買上げの基本方針」に基づいてとして、「当館で年々開催される公募美術展を習練の場として育った現代作家の代表作品を中心に、所蔵美術品としてふさわしい秀作を毎年数点ずつ購入し、あるいは寄贈を受けて永久に保存し、その業績を後世に残すと共に、上記の常設展示場に陳列して、一般都民の鑑賞に供して、芸術的情操の陶冶と美術の普及をはかっております。」と記されている。また、昭和四十六年(一九七一)刊行の「東京都美術館 所蔵作品図録 第二集」では、先の所蔵作品図録以降に購入、移管により加わった日本画十五点、油彩九十一点、水彩・その他三点、彫刻四点、工芸二十一点、書二点の計百三十六点のデーター及び図版が掲載されている。この内訳は昭和四十三、四十四年に購入された作品と東京都知事室から移管された作品および東京都立駒場高等学校美術館(牧野虎雄記念館)より移管されたものとなっている。この第二集が刊行された昭和四十五年三月現在、収蔵作品は日本画四十点、油彩二百七点、水彩・素描・版画十五点、彫刻十六点、工芸三十三点、書十一点の計三百二十二点となる。
大正十五年開館の東京府美術館(昭和十八年十月の都制施行により東京都美術館に名称変更)も老朽化が進み、昭和四十三年(一九六八)に美術館建設委員会が設置され、四十七年(一九七二)に旧館での事業を続けながら、隣接して新館建設が開始された。昭和五十年(一九七五)九月に新館は開館し、その後旧館の取り壊しが始まり、旧館跡地造園工事が完了するのは昭和五十二年(一九七七)三月であった。新館には企画展示室が設けられ、学芸員を配置することとなり、建設準備室から学芸員を中心に美術作品の収集が続けられた。旧館から新館に引き継がれた時、収蔵作品は七百余点にのぼっている。昭和五十二年三月十六日付けの東京都美術館事業検討委員会による「事業の基本方針について」には、作品収集について以下のように記されている。「作品収集については、資料購入委員会を、充実させることが先決である。また、寄贈や寄託の活用を行う必要がある。また、合理的な収集のため、長期計画を早急に確立しなければならない。また、作品管理については、現状は必ずしも良好であるとはいえないので、これの改善は、他の事務に優先して行うべきである。」同年七月十四日付けの東京都美術館運営審議会事業企画委員会による「東京都美術館自主事業基本方針」では、「全般の方針」の中で、「既に現代美術館を志向することを標榜している本館にあっては」と、現代美術を館の柱とすることが再確認されている。東京には既に、古代から近世にいたる日本美術及び東洋美術を扱う東京国立博物館があり、明治末から大正、昭和の近代美術を扱う東京国立近代美術館、西洋美術を扱う国立西洋美術館が活動しており、現代美術を扱う公立館がなかったことと、東京府美術館に始まる東京都美術館では、常に最新鋭の美術作品が展示されていたことが新館の方針を決定づけた。同自主事業基本方針には、「資料収集方針の体系づけ」として、以下の方針を打ち出している。「資料の収集は、おおむね次の方向の範囲内で考える。
① 戦後の日本美術の系譜を体系的に捉えられる作品
② 戦後の日本美術の形成を考える上で必要な戦前(二十世紀のものを主とする)の作品、および重要な影響を及ぼした海外作
③ 美術作品の素材・技術と表現法の関係を説明づけ得る作品
④ 美術の定義づけ、本質説明等を行なうのに便がある作品および補助資料(写真・道具・原材料・工程・見本など)
⑤ 上記①~②の動きを説明づける補助資料
⑥ 文献資料」
開館当初、作品購入予算は決して潤沢なものではなかったが、当時現代美術を収集の核とする美術館はほとんど無く、現代美術作家の皆様からのご厚意により収集は進んだ。また、競争相手が少ないことは、それぞれの作家の代表作を選択できるという大きな幸運をも東京都美術館にもたらしていた。
東京都美術館新館は、旧館の役割であった公募展を開催するスペースの他に、自主事業を行う企画展示棟を併設したが、常設展会場を持たなかったため、年間に自主企画である「特別展」を一~二本、新聞社等との「共催展」を一本の他に、収蔵作品を活用した、通史・テーマ・新収蔵による「企画展」三本を常設展に代わるものとして開催してきた。この収蔵作品展を重ねるなかで、通史の欠落部分や手薄な部分が学芸員の共通認識となり、重点的な収集対象となった。さらに、戦後美術の系譜を確認する諸展覧会、一九五〇年代展、一九六〇年代展、一九七〇年代以降展の開催において、多くの作品を発掘し、作家の皆様から購入、寄贈、寄託の形で収蔵作品は充実していった。学芸員が収集委員会に諮る作品を選択する学芸の事前の収集会議でも、自分が推薦する作品が他の学芸員の質問に明確に答えられるよう各自が理論武装して臨むが、激論に激論を重ね、他の人が聞いたら喧嘩かと思うような会議の末に篩いにかけたこともしばしばであった。しかしこのような議論が、東京都美術館の収集する現代美術作品の、一つの日本戦後現代美術史を創り上げていったのも事実である。
昭和五十八年(一九八三)三月三十一日発行の「東京都収蔵作品目録」では前年度末までに総数は二、三二七点であり、昭和六十年(一九八五)十月一日発行「東京都美術館収蔵作品図録Ⅰ」と翌六十一年三月三十一日発行「東京都美術館収蔵作品図録Ⅱ」では、昭和六十年(一九八五)三月三十一日現在で作品総数は二、六二五点になっている。昭和六十一年(一九八六)、パリのポンピドゥー・センターで開催された「前衛芸術の日本」展には、東京都美術館と東京国立近代美術館の収蔵作品が群を抜いて多く選択されたが、そのことは、東京都美術館収蔵作品の量と質の高さを物語るものであろう。
東京都現代美術館建設構想により、東京都美術館からの作品移管をふまえ、東京都現代美術館の作品収集は東京都美術資料取得基金により教育庁文化課で行うこととなった。そのため、東京都美術館独自の購入は昭和六十二年度をもって終了した。この時点で東京都美術館の収蔵作品数は三千九点であったが、昭和六十三年度に十一点の寄贈作品があり、総点数は三千二十点を数えた。平成六年(一九九四)四月、全収蔵作品(「佐藤慶太郎像」、「舞踏」を含む)及び美術図書資料は東京都現代美術館に移管された。しかしながら、東京都美術館の館の敷地内に設置された野外彫刻十一点、及び講堂横の壁面に固定された「舞踏」については、これをとどめ置いている。野外彫刻については、作品そのものが敷地に固定されているもの、また周囲の環境を含め、作品が東京都美術館内の設置場所を念頭に置いて制作されたもの、また東京都美術館の外観のシンボル的作品であるためこれを現在も館内設置している。さらに、東京府美術館建設の恩人であり、東京都美術館の歴史を語る上で欠かせない佐藤慶太郎氏の胸像は、平成十一年度(一九九九)に東京都現代美術館より再移管されて東京都美術館に戻り、旧館で来館者を暖かく見守っていたと同じく、東京都美術館講堂前で今も館内に穏やかな視線を投げかけている。
(東京都美術館学芸員)
ここでは、作品収集の歴史と経緯について記しておきたい。大正十五年(一九二六)五月一日に開館した東京府美術館は、美術団体への作品展覧の場の提供を主たる機能としていた。この開館初期から館内に設置されていた作品は前述の「佐藤慶太郎像」と「舞踏」である。
美術館建設に尽力した佐藤慶太郎氏のために、美術団体から謝意を表す記念品が贈られたが、その中に彫刻部有志による胸像の制作と館内設置の計画が起った。朝倉文夫作のこの像は、開館時に彫刻陳列室の階段下に置かれた。その後、昭和二十七年(一九五二)三月十五日に地階北側に佐藤記念室が開室すると、その場に移されている。「舞踏」についていえば、開館当時の一九二〇年代の日本でのフランス美術展に触れておかねばならない。親日家エルマン・デルスニス氏により企画された、「仏蘭西現代美術展覧会」の第一回展が東京、農商務省商品陳列館で開催されたのは大正十一年(一九二二)五月であり、その後十年間この展覧会は東京のみならず、大阪でも開催された。ベルナールの「舞踏」が出品されたのは大正十四年(一九二五)の第四回展である。当時、絵画はオリジナルを展示していたが、彫刻作品は購入者も少なく、その重量や輸送費を考慮し、石膏に抜いた作品が展示され、展覧会終了後に日本に寄贈された作品も多い。ロダンの石膏製の作品も数点が東京美術学校(現東京藝術大学)に寄贈されている。この「舞踏」も原作は大理石で現在オルセー美術館に所蔵されている。石膏による「舞踏」は東京府美術館の開館に合わせて寄贈され、実際に館内に設置されたのは、昭和二年(一九二七)のことであった。その後、現在の東京都美術館が昭和五十年(一九七五)に新館開館した折り、このレリーフは汚れと傷みが激しくなっていたため、ベルナール家の遺族の了承を得て新たに石膏に抜かれ、講堂横の壁に設置された。旧館のレリーフや雌型が現在も東京都美術館の収蔵庫に保管されている。
昭和四十年(一九六五)刊行の「開館四十周年記念 東京都美術館のあゆみ」には、佐藤記念室の新設について、「昭和二十七年三月十五日、美術館建設資金寄附者、佐藤慶太郎氏の徳をしのび遺志を記念するため、佐藤記念室を館内一部(北側二室)に常設展示場として開設、当館所蔵の美術品を中心に、現代美術の理解の基礎となる絵画、複製画、美術に関する図書印刷物その他を常時陳列し、一般都民に無料で開放することとした。」とある。この記念誌の所蔵美術品目録には、日本画二十二点、油絵八十九点、水彩・素描九点、彫刻十点、工芸十点、書五点の計百四十五点が記載されている。佐藤記念室を飾る作品として、いつ頃から収集が始まったかさだかではないが、この目録には昭和二年から二十六年までに「登録」された作品が日本画九点、油絵十七点、水彩・素描一点、彫刻三点、工芸五点の計三十五点が挙げられており、開館当初から恐らく寄贈作品を含め作品が収蔵されていたことがわかる。ただし、「佐藤慶太郎像」と「舞踏」は建物の一部として扱われており、この所蔵美術品目録には記載されていない。なおかつ、当時は美術作品は東京都全体の備品という考えから、この記念誌の所蔵品目録にあってその後に移管された作品も見受けられる。
佐藤記念室の設置により作品購入が増え、東京都美術館の収蔵作品はその数を増していく。当時の職員から聞いた話では、各公募団体の先生方に一律の金額で作品制作を依頼し、先生方も「いつもお世話になっている都美術館さんのためなら」と快くお引き受けいただいたと聞く。昭和四十三年(一九六八)年刊行「東京都美術館 所蔵作品図録」では、データーと写真が掲載されている所蔵作品は、日本画二十五点、油絵百十六点、水彩・素描・版画十二点、彫刻十三点、工芸十二点、書八点の計百八十六点となっている。この所蔵作品図録には「東京都美術館所蔵美術品買上げの基本方針」に基づいてとして、「当館で年々開催される公募美術展を習練の場として育った現代作家の代表作品を中心に、所蔵美術品としてふさわしい秀作を毎年数点ずつ購入し、あるいは寄贈を受けて永久に保存し、その業績を後世に残すと共に、上記の常設展示場に陳列して、一般都民の鑑賞に供して、芸術的情操の陶冶と美術の普及をはかっております。」と記されている。また、昭和四十六年(一九七一)刊行の「東京都美術館 所蔵作品図録 第二集」では、先の所蔵作品図録以降に購入、移管により加わった日本画十五点、油彩九十一点、水彩・その他三点、彫刻四点、工芸二十一点、書二点の計百三十六点のデーター及び図版が掲載されている。この内訳は昭和四十三、四十四年に購入された作品と東京都知事室から移管された作品および東京都立駒場高等学校美術館(牧野虎雄記念館)より移管されたものとなっている。この第二集が刊行された昭和四十五年三月現在、収蔵作品は日本画四十点、油彩二百七点、水彩・素描・版画十五点、彫刻十六点、工芸三十三点、書十一点の計三百二十二点となる。
大正十五年開館の東京府美術館(昭和十八年十月の都制施行により東京都美術館に名称変更)も老朽化が進み、昭和四十三年(一九六八)に美術館建設委員会が設置され、四十七年(一九七二)に旧館での事業を続けながら、隣接して新館建設が開始された。昭和五十年(一九七五)九月に新館は開館し、その後旧館の取り壊しが始まり、旧館跡地造園工事が完了するのは昭和五十二年(一九七七)三月であった。新館には企画展示室が設けられ、学芸員を配置することとなり、建設準備室から学芸員を中心に美術作品の収集が続けられた。旧館から新館に引き継がれた時、収蔵作品は七百余点にのぼっている。昭和五十二年三月十六日付けの東京都美術館事業検討委員会による「事業の基本方針について」には、作品収集について以下のように記されている。「作品収集については、資料購入委員会を、充実させることが先決である。また、寄贈や寄託の活用を行う必要がある。また、合理的な収集のため、長期計画を早急に確立しなければならない。また、作品管理については、現状は必ずしも良好であるとはいえないので、これの改善は、他の事務に優先して行うべきである。」同年七月十四日付けの東京都美術館運営審議会事業企画委員会による「東京都美術館自主事業基本方針」では、「全般の方針」の中で、「既に現代美術館を志向することを標榜している本館にあっては」と、現代美術を館の柱とすることが再確認されている。東京には既に、古代から近世にいたる日本美術及び東洋美術を扱う東京国立博物館があり、明治末から大正、昭和の近代美術を扱う東京国立近代美術館、西洋美術を扱う国立西洋美術館が活動しており、現代美術を扱う公立館がなかったことと、東京府美術館に始まる東京都美術館では、常に最新鋭の美術作品が展示されていたことが新館の方針を決定づけた。同自主事業基本方針には、「資料収集方針の体系づけ」として、以下の方針を打ち出している。「資料の収集は、おおむね次の方向の範囲内で考える。
① 戦後の日本美術の系譜を体系的に捉えられる作品
② 戦後の日本美術の形成を考える上で必要な戦前(二十世紀のものを主とする)の作品、および重要な影響を及ぼした海外作
③ 美術作品の素材・技術と表現法の関係を説明づけ得る作品
④ 美術の定義づけ、本質説明等を行なうのに便がある作品および補助資料(写真・道具・原材料・工程・見本など)
⑤ 上記①~②の動きを説明づける補助資料
⑥ 文献資料」
開館当初、作品購入予算は決して潤沢なものではなかったが、当時現代美術を収集の核とする美術館はほとんど無く、現代美術作家の皆様からのご厚意により収集は進んだ。また、競争相手が少ないことは、それぞれの作家の代表作を選択できるという大きな幸運をも東京都美術館にもたらしていた。
東京都美術館新館は、旧館の役割であった公募展を開催するスペースの他に、自主事業を行う企画展示棟を併設したが、常設展会場を持たなかったため、年間に自主企画である「特別展」を一~二本、新聞社等との「共催展」を一本の他に、収蔵作品を活用した、通史・テーマ・新収蔵による「企画展」三本を常設展に代わるものとして開催してきた。この収蔵作品展を重ねるなかで、通史の欠落部分や手薄な部分が学芸員の共通認識となり、重点的な収集対象となった。さらに、戦後美術の系譜を確認する諸展覧会、一九五〇年代展、一九六〇年代展、一九七〇年代以降展の開催において、多くの作品を発掘し、作家の皆様から購入、寄贈、寄託の形で収蔵作品は充実していった。学芸員が収集委員会に諮る作品を選択する学芸の事前の収集会議でも、自分が推薦する作品が他の学芸員の質問に明確に答えられるよう各自が理論武装して臨むが、激論に激論を重ね、他の人が聞いたら喧嘩かと思うような会議の末に篩いにかけたこともしばしばであった。しかしこのような議論が、東京都美術館の収集する現代美術作品の、一つの日本戦後現代美術史を創り上げていったのも事実である。
昭和五十八年(一九八三)三月三十一日発行の「東京都収蔵作品目録」では前年度末までに総数は二、三二七点であり、昭和六十年(一九八五)十月一日発行「東京都美術館収蔵作品図録Ⅰ」と翌六十一年三月三十一日発行「東京都美術館収蔵作品図録Ⅱ」では、昭和六十年(一九八五)三月三十一日現在で作品総数は二、六二五点になっている。昭和六十一年(一九八六)、パリのポンピドゥー・センターで開催された「前衛芸術の日本」展には、東京都美術館と東京国立近代美術館の収蔵作品が群を抜いて多く選択されたが、そのことは、東京都美術館収蔵作品の量と質の高さを物語るものであろう。
東京都現代美術館建設構想により、東京都美術館からの作品移管をふまえ、東京都現代美術館の作品収集は東京都美術資料取得基金により教育庁文化課で行うこととなった。そのため、東京都美術館独自の購入は昭和六十二年度をもって終了した。この時点で東京都美術館の収蔵作品数は三千九点であったが、昭和六十三年度に十一点の寄贈作品があり、総点数は三千二十点を数えた。平成六年(一九九四)四月、全収蔵作品(「佐藤慶太郎像」、「舞踏」を含む)及び美術図書資料は東京都現代美術館に移管された。しかしながら、東京都美術館の館の敷地内に設置された野外彫刻十一点、及び講堂横の壁面に固定された「舞踏」については、これをとどめ置いている。野外彫刻については、作品そのものが敷地に固定されているもの、また周囲の環境を含め、作品が東京都美術館内の設置場所を念頭に置いて制作されたもの、また東京都美術館の外観のシンボル的作品であるためこれを現在も館内設置している。さらに、東京府美術館建設の恩人であり、東京都美術館の歴史を語る上で欠かせない佐藤慶太郎氏の胸像は、平成十一年度(一九九九)に東京都現代美術館より再移管されて東京都美術館に戻り、旧館で来館者を暖かく見守っていたと同じく、東京都美術館講堂前で今も館内に穏やかな視線を投げかけている。
(東京都美術館学芸員)





