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沿革
佐藤慶太郎翁—公私一如に生きた人 斉藤泰嘉
東京都美術館は、大正十五年(一九二六)五月一日、東京府美術館という名で開館している。岡田信一郎設計による建物の建設費は、石炭商佐藤慶太郎ただ一人の寄付金百万円でまかなわれた。学芸員であった私が、佐藤慶太郎の生涯や「上野の美術館」の歴史について調べ始めたのは、一九八〇年代半ばのことである。
当時の日本経済には力があった。美術館の世界も大規模な海外展の開催を競い合っていた。私も「ヘンリー・ムーア展」や「ボロフスキー展」など欧米の現代美術を紹介する海外展の担当者として働き、目は海の外に向いていた。だが、その一方で、東京都美術館の歴史を調べることは、子供の頃に見た旧美術館の遠い思い出が甦るようで楽しかった。
私は、先ず、昭和六十一年(一九八六)、佐藤慶太郎の伝記著者加藤善徳氏を訪ね、佐藤慶太郎の生涯と美術館建設費寄付の経緯について教えていただいた。以下は、加藤氏が、旧都美術館取り壊しの際、朝日新聞に投書した経緯をご本人が書かれた文章の一部である。
「佐藤慶太郎翁の奉仕精神を残したい 加藤善徳
佐藤翁の寄付した東京都美術館は五十年の活動を終り、近く解体され、表玄関に安置された翁の胸像も感謝碑文も、同時に姿を消し倉庫に保管されるという。そこで私は左の一文を朝日新聞社の声欄に投じた。佐藤翁の奉仕精神を、倉庫に眠らせることに公憤を感じたからである。
当時の日本経済には力があった。美術館の世界も大規模な海外展の開催を競い合っていた。私も「ヘンリー・ムーア展」や「ボロフスキー展」など欧米の現代美術を紹介する海外展の担当者として働き、目は海の外に向いていた。だが、その一方で、東京都美術館の歴史を調べることは、子供の頃に見た旧美術館の遠い思い出が甦るようで楽しかった。
私は、先ず、昭和六十一年(一九八六)、佐藤慶太郎の伝記著者加藤善徳氏を訪ね、佐藤慶太郎の生涯と美術館建設費寄付の経緯について教えていただいた。以下は、加藤氏が、旧都美術館取り壊しの際、朝日新聞に投書した経緯をご本人が書かれた文章の一部である。
「佐藤慶太郎翁の奉仕精神を残したい 加藤善徳
佐藤翁の寄付した東京都美術館は五十年の活動を終り、近く解体され、表玄関に安置された翁の胸像も感謝碑文も、同時に姿を消し倉庫に保管されるという。そこで私は左の一文を朝日新聞社の声欄に投じた。佐藤翁の奉仕精神を、倉庫に眠らせることに公憤を感じたからである。
残したい奉仕精神と美術館
九月一日、新装成った都立美術館がオープンし、旧館は近く解体されて姿を消すという。(中略)過去半世紀、日本美術の興隆につくした旧美術館の消え去るのも惜しいが、これを寄付した佐藤翁の精神の忘れ去られるのが、それにもまして残念だ。(中略)かかる精神による美術館のあったことを、語りつぐ記念碑でも残す道はないものだろうか。都当局ならびに美術家各位に訴える。(朝日新聞声欄)
この文章は、五十年十月二十九日の朝刊にのったが、残念ながら都当局からも、反響皆無である。」
(「次郎文庫通信」第四信・昭和五十一年一月二十日発行)
私は、三鷹市にある日本生活協会(佐藤新興生活館の後身)へも足を運び、佐藤浩司理事長をはじめ、生前の佐藤慶太郎を知る方たちからお話を伺った。昭和六十二年(一九八七)、私は通い慣れた上野の山を離れ、丸の内の東京都教育庁文化課で新美術館建設準備担当として働くようになった。
佐藤慶太郎が大正十年(一九二一)に美術館建設費百万円寄付を申し込むべく、丸の内に阿部浩東京府知事を訪ねたとき、佐藤慶太郎の念頭にあったのは、常設美術館(ミュージアム)の建設であったが、当時の美術界の要請から、東京府美術館は美術展覧会場(ギャラリー)として開館した。
この東京府美術館(上野)を初代とすれば、昭和五十年(一九七五)新築の現東京都美術館(上野)の建物は二代目に当たる。だが、この二代目美術館も、三千点の収蔵作品を持ちながら、それを常時公開する常設展示場を備えての開館ではなかった。佐藤慶太郎の希望は、まだかなえられてはいなかった。それをかなえたのが三代目の新美術館(現東京都現代美術館)である。すでに上野に美術館があるのに、なぜ新しく東京都が四百億円を超える巨費を投じて美術館を建設する必要があったのか。その理由の一つが、常設展示場の確保であり、それは、歴史をさかのぼれば、佐藤慶太郎の希望に帰着する。
新美術館建設準備担当として、私の気持ちの中では、佐藤慶太郎の希望の実現が仕事の目標の一つになっていた。
昭和六十三年(一九八八)秋、私は九州へ出張し、佐藤慶太郎の父祖伝来の地、折尾(現北九州市八幡西区)を訪ねた。佐藤商店のあった若松港を訪れると岸壁には石炭の山がいくつかあり、筑豊炭積み出しで繁栄した『花と龍』時代の若松の面影が残っていた。
新美術館建設準備係は、丸の内から飯田橋・筑土八幡町、新宿・新都庁舎、さらに上野の東京都美術館内へと事務室が移り、作品購入や開館記念展準備が本格化した。
私は六百万ドル(約六億円)の絵画作品(リキテンスタイン作《ヘアリボンの少女》)をニューヨーク在住の作者から購入する海外契約事務、さらに開館記念海外展(英国の彫刻家アンソニー・カロ氏の個展、建築家安藤忠雄氏による会場構成)の準備作業に没頭する毎日となり、佐藤慶太郎についての調査研究とは疎遠になってしまった。
平成七年(一九九五)、東京都現代美術館が開館。翌八年、私は美術館から筑波大学芸術学系へと移った。平成十年(一九九八)からは、佐藤慶太郎の生涯についての連載(月刊『自然の泉』誌)を始め、同年秋には、十年ぶりに佐藤慶太郎の暮らした若松を訪れた。故加藤善徳氏の思いが通じたのか、平成十三年(二〇〇一)には、それまで二十数年間も収蔵庫で眠っていた《佐藤慶太郎像》(朝倉文夫作、ブロンズ彫刻)が甦った。その像は、「石炭の神様」の業績を称える説明文を添えて東京都美術館講堂前ロビーに設置され、かつての旧都美術館でのように来館者の目にふれるようになった。
連載の本文が完結した平成十五年(二〇〇三)三月、私は「東京府美術館史の研究」と題した論文で筑波大学より博士号をいただいた。手違いで学位記の年号が平成ではなく、「昭和十五年」となっていた。偶然ながら、それは佐藤慶太郎が他界した年である。
公私一如に生きた佐藤慶太郎翁無くして東京都美術館も無く、今の私も無い。感謝の念と共に、翁の爽やかな笑顔を思い浮かべて筆を擱く。
(筑波大学芸術学系教授、元東京都美術館学芸員)
この文章は、五十年十月二十九日の朝刊にのったが、残念ながら都当局からも、反響皆無である。」
(「次郎文庫通信」第四信・昭和五十一年一月二十日発行)
私は、三鷹市にある日本生活協会(佐藤新興生活館の後身)へも足を運び、佐藤浩司理事長をはじめ、生前の佐藤慶太郎を知る方たちからお話を伺った。昭和六十二年(一九八七)、私は通い慣れた上野の山を離れ、丸の内の東京都教育庁文化課で新美術館建設準備担当として働くようになった。
佐藤慶太郎が大正十年(一九二一)に美術館建設費百万円寄付を申し込むべく、丸の内に阿部浩東京府知事を訪ねたとき、佐藤慶太郎の念頭にあったのは、常設美術館(ミュージアム)の建設であったが、当時の美術界の要請から、東京府美術館は美術展覧会場(ギャラリー)として開館した。
この東京府美術館(上野)を初代とすれば、昭和五十年(一九七五)新築の現東京都美術館(上野)の建物は二代目に当たる。だが、この二代目美術館も、三千点の収蔵作品を持ちながら、それを常時公開する常設展示場を備えての開館ではなかった。佐藤慶太郎の希望は、まだかなえられてはいなかった。それをかなえたのが三代目の新美術館(現東京都現代美術館)である。すでに上野に美術館があるのに、なぜ新しく東京都が四百億円を超える巨費を投じて美術館を建設する必要があったのか。その理由の一つが、常設展示場の確保であり、それは、歴史をさかのぼれば、佐藤慶太郎の希望に帰着する。
新美術館建設準備担当として、私の気持ちの中では、佐藤慶太郎の希望の実現が仕事の目標の一つになっていた。
昭和六十三年(一九八八)秋、私は九州へ出張し、佐藤慶太郎の父祖伝来の地、折尾(現北九州市八幡西区)を訪ねた。佐藤商店のあった若松港を訪れると岸壁には石炭の山がいくつかあり、筑豊炭積み出しで繁栄した『花と龍』時代の若松の面影が残っていた。
新美術館建設準備係は、丸の内から飯田橋・筑土八幡町、新宿・新都庁舎、さらに上野の東京都美術館内へと事務室が移り、作品購入や開館記念展準備が本格化した。
私は六百万ドル(約六億円)の絵画作品(リキテンスタイン作《ヘアリボンの少女》)をニューヨーク在住の作者から購入する海外契約事務、さらに開館記念海外展(英国の彫刻家アンソニー・カロ氏の個展、建築家安藤忠雄氏による会場構成)の準備作業に没頭する毎日となり、佐藤慶太郎についての調査研究とは疎遠になってしまった。
平成七年(一九九五)、東京都現代美術館が開館。翌八年、私は美術館から筑波大学芸術学系へと移った。平成十年(一九九八)からは、佐藤慶太郎の生涯についての連載(月刊『自然の泉』誌)を始め、同年秋には、十年ぶりに佐藤慶太郎の暮らした若松を訪れた。故加藤善徳氏の思いが通じたのか、平成十三年(二〇〇一)には、それまで二十数年間も収蔵庫で眠っていた《佐藤慶太郎像》(朝倉文夫作、ブロンズ彫刻)が甦った。その像は、「石炭の神様」の業績を称える説明文を添えて東京都美術館講堂前ロビーに設置され、かつての旧都美術館でのように来館者の目にふれるようになった。
連載の本文が完結した平成十五年(二〇〇三)三月、私は「東京府美術館史の研究」と題した論文で筑波大学より博士号をいただいた。手違いで学位記の年号が平成ではなく、「昭和十五年」となっていた。偶然ながら、それは佐藤慶太郎が他界した年である。
公私一如に生きた佐藤慶太郎翁無くして東京都美術館も無く、今の私も無い。感謝の念と共に、翁の爽やかな笑顔を思い浮かべて筆を擱く。
(筑波大学芸術学系教授、元東京都美術館学芸員)





