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東京都美術館の建築について
東京都美術館の思い出
東京都美術館の思い出 島 義人
前川國男は既に亡く当時の担当者も退所していますが、事務所の伝統を繋ぎ作品を見守ることは前川國男が我々に課した建築家の使命でした。竣工後も都美術館については必要に応じいくつかの課題に対処してきました。ここでは旧担当者の話をまとめ、また都美術館のありようをどう考えていったら良いのか設計者サイドから述べてみます。
設計者前川國男は明治三十八年(一九〇五)生まれ、昭和六十一年(一九八六)にその生を終えました。晩年病に冒されながらも建築への情熱は衰えることなく、スケッチを繰り返しました。東京都美術館竣工の昭和五十年(一九七五)は丁度七〇歳、脂の乗り切っている頃でした。上野公園内では昭和二十九年(一九五四)竣工した西洋美術館(設計ル・コルビュジエ、増築昭和五十四年〔一九七九〕前川事務所)、昭和三十六年(一九六一)竣工の東京文化会館に次ぐ前川三作目の作品になります。若き日、帝室博物館コンペに破れ「負ければ賊軍」なる名文を残した前川はかつての古戦場、上野に戻ってきたのです。東京文化会館の打ち放しコンクリートから十四年経ち、打ち込みタイルへと表現が変わった理由は、建築の持つ永続性を重視したためでした。
基本設計書の最初に設計意図が端的に述べられています。一、厳正中立な展示空間をつくること、二、平凡な材料で非凡な結果を生み出すこと、三、周辺の環境を損なわないこと、というシンプルなものでした。設計条件としては四つ(もしくは八つ)の文化団体が展覧会を同時開催し、また数多くの公募展に対応するというものが中心でした。当然床面積を必要とし、また物流施設に近い、作品搬入、審査、展示、搬出の効率化・合理化が求められました。このため旧都美術館の三倍近い床面積が求められたのですが、これらは旧美術館と同等の建築面積で行うこと、というのが条件でした。また公園内施設(風致地区)ということで高さも十五mと抑えられたのです。
この条件下では必然的に建物を地下に埋めるしかない(建築基準法上の建築面積は地上部で測るもので地下はカウントされない。)。そこで前川事務所で提案した形は、地下でもいかにして地上並みの建築環境を生み出すか、に工夫が凝らされました。エントランスを地下広場を介して設ける、ロビーを入った突き当たりは斜めのサンクンガーデンとする、大彫塑室の周りにいくつかの光庭を設け、地下らしくない空間とすることなどが、その手立てでした。
前川國男・都美術館スケッチ
設計者前川國男は明治三十八年(一九〇五)生まれ、昭和六十一年(一九八六)にその生を終えました。晩年病に冒されながらも建築への情熱は衰えることなく、スケッチを繰り返しました。東京都美術館竣工の昭和五十年(一九七五)は丁度七〇歳、脂の乗り切っている頃でした。上野公園内では昭和二十九年(一九五四)竣工した西洋美術館(設計ル・コルビュジエ、増築昭和五十四年〔一九七九〕前川事務所)、昭和三十六年(一九六一)竣工の東京文化会館に次ぐ前川三作目の作品になります。若き日、帝室博物館コンペに破れ「負ければ賊軍」なる名文を残した前川はかつての古戦場、上野に戻ってきたのです。東京文化会館の打ち放しコンクリートから十四年経ち、打ち込みタイルへと表現が変わった理由は、建築の持つ永続性を重視したためでした。
基本設計書の最初に設計意図が端的に述べられています。一、厳正中立な展示空間をつくること、二、平凡な材料で非凡な結果を生み出すこと、三、周辺の環境を損なわないこと、というシンプルなものでした。設計条件としては四つ(もしくは八つ)の文化団体が展覧会を同時開催し、また数多くの公募展に対応するというものが中心でした。当然床面積を必要とし、また物流施設に近い、作品搬入、審査、展示、搬出の効率化・合理化が求められました。このため旧都美術館の三倍近い床面積が求められたのですが、これらは旧美術館と同等の建築面積で行うこと、というのが条件でした。また公園内施設(風致地区)ということで高さも十五mと抑えられたのです。
この条件下では必然的に建物を地下に埋めるしかない(建築基準法上の建築面積は地上部で測るもので地下はカウントされない。)。そこで前川事務所で提案した形は、地下でもいかにして地上並みの建築環境を生み出すか、に工夫が凝らされました。エントランスを地下広場を介して設ける、ロビーを入った突き当たりは斜めのサンクンガーデンとする、大彫塑室の周りにいくつかの光庭を設け、地下らしくない空間とすることなどが、その手立てでした。
前川國男・都美術館スケッチ
公募展示室は四団体に中立的な美術的背景を提供するために、形の同じ四角い箱を四つ連続させました。公募展示室は動線上それらに交じり合わないように反対側に配置されました。二つを繋ぐのがレストラン・講堂棟です。これに面し前述の地下広場があります。地下広場を取り巻く列柱はアーチ状の表現を施しています。この基本的構成は、計画の比較的初期の段階に生まれました。基本設計が六ヶ月、実施設計が六ヶ月という非常に短い期間にまとめる必要があり、早い判断が必要とされたのでした。東京都美術館より二年ほど前に前川國男はパリのポンピドーセンターのコンペに応募しましたが(我々若手所員も駆り出された)、この時の連続する均等なマッス、地下広場という構成は都美術館にも引き継がれている気がします
前川國男・パリ・ポンピドーセンターコンペスケッチ
前川國男・パリ・ポンピドーセンターコンペスケッチ
前川建築の特色は建築を通して都市的な空間を生み出すことで、それが一つのキーワードとなっています。昭和三十九年(一九六四)に竣工した埼玉会館、昭和四十五年(一九七〇)竣工の埼玉県立博物館(現埼玉県立歴史と民俗の博物館)、その後の各地の美術館建築も美術館というに留まらず、その場を訪れる人がいかにして都市的な空間を享受できるかに力が注がれています。都美術館はその典型の一つと言えるでしょう。これは若き日、パリのル・コルビュジエに学んだ前川國男の特徴と言ってよいかもしれません。車やオペラが大好きな若き日の前川が、十分生を享受して生み出す空間の質、といったものが感じられませんか。我々所員もオイシイものを食え、とよく食べもの屋や前川邸での夕食会に連れ出されたことを懐かしく思い出します。都美術館地下一階のエントランスロビーのボールト(円筒型)天井にも何か生を謳歌し、人間を暖かく包み込む南欧的な香りがしないでもありません。
前川建築のもう一つの特色は素材と工法にこだわるということです。巷ではテクニカル・アプローチと呼ばれましたが、前川國男は日本の建築は中身から作り上げないとホンモノにならない、単なる絵空事に終わってしまう、月夜の蟹だ(実がない?)、という危惧の念を抱いていたのです。そこで選ばれたのが打ち込みタイルという手法です。近代建築はご存知のように鉄とコンクリートの構造を元に大きな開口部をガラスで覆うというものでした。昭和三十六年(一九六一)竣工の東京文化会館はその基本への日本的回答の一つでした。その後コンクリートの耐候性に課題を感じた前川が開発した手法が、外側に大型タイルを打ち込むというものでした。近年都美術館でも打ち込み不良箇所が見出され補修を行っていますが、全数量からすると少なく、メンテナンスフリーで永年美観を維持しえた良い材料と云えるのではないでしょうか(今後補修は必要にせよ)。また耐候性鋼によるサッシ、鉄部の扱いも鉄錆が経年変化で安定錆となりメンテナンスフリーであることに着目したものです。これも薄板では顕著なチョーキング(白い粉を吹いた表情となる)などの課題はありますが、ペンキの塗り替えを殆ど要さないメリットがあります。
エントランスロビーから連続する大彫塑室のボールト天井は砂岩を混ぜたプレキャスト・コンクリートという手法(工場でつくって現場でとりつける)で作られています。アーチ状で暖かで落ち着いた空間を生み出しています。気がついていますか、アーチの方向が力学的な西洋のものと違い、短冊状になっています。オカシイのでは、と所員がいうと、「君ね、寿司の巻いたの(巻簾)があるでしょ、それですよ」と言ったとか、言わないとか。設計に疲れた頃、良く響くバリトンでの話の面白かったこと。その磊落な笑い声を所員は生涯忘れることが無いでしょう。
テクニカルな建築の近代化と、都市的空間づくり、それに人間的な温かみが程良くブレンドされて「土派」とも言うべき前川建築が生まれてきたのでしょう。
基本設計模型
前川建築のもう一つの特色は素材と工法にこだわるということです。巷ではテクニカル・アプローチと呼ばれましたが、前川國男は日本の建築は中身から作り上げないとホンモノにならない、単なる絵空事に終わってしまう、月夜の蟹だ(実がない?)、という危惧の念を抱いていたのです。そこで選ばれたのが打ち込みタイルという手法です。近代建築はご存知のように鉄とコンクリートの構造を元に大きな開口部をガラスで覆うというものでした。昭和三十六年(一九六一)竣工の東京文化会館はその基本への日本的回答の一つでした。その後コンクリートの耐候性に課題を感じた前川が開発した手法が、外側に大型タイルを打ち込むというものでした。近年都美術館でも打ち込み不良箇所が見出され補修を行っていますが、全数量からすると少なく、メンテナンスフリーで永年美観を維持しえた良い材料と云えるのではないでしょうか(今後補修は必要にせよ)。また耐候性鋼によるサッシ、鉄部の扱いも鉄錆が経年変化で安定錆となりメンテナンスフリーであることに着目したものです。これも薄板では顕著なチョーキング(白い粉を吹いた表情となる)などの課題はありますが、ペンキの塗り替えを殆ど要さないメリットがあります。
エントランスロビーから連続する大彫塑室のボールト天井は砂岩を混ぜたプレキャスト・コンクリートという手法(工場でつくって現場でとりつける)で作られています。アーチ状で暖かで落ち着いた空間を生み出しています。気がついていますか、アーチの方向が力学的な西洋のものと違い、短冊状になっています。オカシイのでは、と所員がいうと、「君ね、寿司の巻いたの(巻簾)があるでしょ、それですよ」と言ったとか、言わないとか。設計に疲れた頃、良く響くバリトンでの話の面白かったこと。その磊落な笑い声を所員は生涯忘れることが無いでしょう。
テクニカルな建築の近代化と、都市的空間づくり、それに人間的な温かみが程良くブレンドされて「土派」とも言うべき前川建築が生まれてきたのでしょう。
基本設計模型
都美術館では大沢(故人)、高橋、川島、角田、構造の田嶋、設備の田中などモノスゴい数の所員が現場に出ていました。超過密スケジュールで設計が行われ、その分現場も大変だったのです。十五万㎥の土を上野の山から掻い出して造った(どこへ行ったのだろうか)、床面積三万㎡を超える大美術館(それも公募展を主体とする)など日本にしかないかもしれません。それはともかく当事務所の特色は「現場が終わるまで設計」というもので、最後の筆を置くまで建築家は諦めるな、ということでした。当節流の第三者監理なんてトンデモない、無責任じゃないか、とそういうスタンスでないでしょうか(建物の種類によると思います)。かといって現場で大設計変更を起こす、とかいうことではなくて、その密度をより高めようとするものでした。それには作るほうの職人さんとの会話も大事で、前川さん(陰で所員はこう呼んでいた)は職人さんは大事にしました。タイル、鋼製サッシ、PCコンクリート、塗装など優れたサブコンとの協力(丸投げでなく課題を出す)から優れた建築素材が生まれました。何度タイル窯に足を運んだことでしょう。常滑の土管工場さんから都美術館の美しいタイルが生まれたのです。
現場での設計監理は現場にクラーク・オブ・ワークス(監理)、事務所にスーパーヴァイザー(設計監理)を置くという二本立ての考え方でした。ディテール(詳細)、デザインは事務所でスタディーを十分繰返し、現場にフィードバックするというのがそのスタイルでした。今でいうと人件費がかかって、ということになりますが最後まで決して気は抜かない、という前川事務所スタイルの現れです(設計料の確保には代々幹部所員は苦労したようです)。
前川さんは「サイフに見合うもの」と良く言っていましたが今でいえば、時間を経ても美観が失われず、メンテナンス費用が少ないものという「ライフサイクルコスト」の重視ということでしょう。エイジングという言葉がありますが、竣工した次の日から劣化してゆく建築ではなくて、古びても美しく古びるものを重視したのでした。また当時レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を前川さんは読んでいましたが、今で言うところの、環境負荷を小さくしエネルギー消費量を小さくするような建築づくりには相当気を使っていました。それが打込みタイルなどへ結びついた面があると思います。
敷地のイチョウから名づけられた「ぎんなんの会」は前川さんが言い出したもので(命名は現場所長)、竣工後も続いていたそうです。施主、設計者、施行者三者が一年に一回集う会です。思い出話に浸る会かと思いましたら、そうではなく集まるとまず施設をよく見て、ちゃんとしているかどうか確かめるのです。そういうわけで我々所員は設計後の建物に対してもある種の責任があると感じ、行動するよう心掛けているわけです。
最近他の建物で四十年程度を経ての改修に携わる機会がありました。その折、建築は思っている以上に傷むものだということを痛感しました。その原因は物理的な劣化と同時に、わずか四十年でニーズが変わり、その為に建築の使われ方が変わり、それが原因でみすぼらしくなってしまうということです。改修計画時に、「建て替え」などという声が聞こえることもあります。欧米の意識調査では、建物の寿命が百年以上と考えるのはザラで、ほんの四十年で建て替えを云々するのは木造の伝統に根ざした極めて日本的な文化の帰結かとも思います。生きているうちに自分の育ってきた環境と時代が失われることに繋がり、歴史は継続されず、やはりオカシイことだと思います。公共建築の使命は永続性にあります。改修したり増築したりしてしたたかに生きながらえる建築は、爆撃を受けたドイツ都市などの建物に多いですが、文化と歴史を継続しようとする執拗な姿勢には感銘を受けます。そういう努力の結果、「美しい国」が残されてゆくのです。
岡田信一郎さんが設計した古い都美術館へも、私たちは学生時代よく訪れたものでした。大階段と列柱のギリシャ的な相貌とか、大きく吹きぬけた展示空間も懐かしく思い出します。今の講堂の壁に当時のレリーフがあります。今にして思えば旧美術館の歴史を何かもう少し残して置けたらと、いう気もします。歴史が繋がってゆくことが建築の使命の一つだと思うからです。
前川國男は樹木ほか既存の環境を大事にしてプランニングを行いましたが、大樹も大分老齢化してきたような気がします。今後都美術館は新しく脱皮してゆくことを求められると思いますが、木に竹を繋ぐのではないような新しい時代への対応が求められるでしょう。残す部分と変えるべき部分をきちんと整理し、新機能への確かな技術的検討を加え、次代に羽ばたく新美術館に生まれ変わってほしいと思います。
十年ほど前に東京文化会館を改修し、また西洋美術館の免震レトロフィットを計画していた頃、旧建設省の音頭取りでUCCC(上野カルチャーシビックコア)という組織が出来ました。上野公園内の美術館・博物館の関係者、設計者が一堂に会し、上野公園内の文教施設をどう関連付けてゆくか、上野公園の一体性をどう整理してゆくかの協議が行われました。都美術館のアプローチとも絡みますが、上野公園全体の中で都美術館をどう位置づけ、人の流れをどう整理してゆくかも課題です。ひとり建物だけの問題ではなく、公園全体の動線の整理が必要となるでしょう。ご存知のように上野公園は文化施設、遊興施設、祭祀施設ほかがありその多面性は興味深いと同時に、混沌としすぎている面があります。サインと園路、搬入路の整備など避けて通れない問題があります。周辺の上野関係者はそれらに関心を抱き、都美術館のありようにも気をかけていると思います。複合文化公園とでもいうべき上野公園の中での都美術館のありかたをどう考えるかという視点が今後求められるでしょう。
(前川建築設計事務所建築担当役員)
現場での設計監理は現場にクラーク・オブ・ワークス(監理)、事務所にスーパーヴァイザー(設計監理)を置くという二本立ての考え方でした。ディテール(詳細)、デザインは事務所でスタディーを十分繰返し、現場にフィードバックするというのがそのスタイルでした。今でいうと人件費がかかって、ということになりますが最後まで決して気は抜かない、という前川事務所スタイルの現れです(設計料の確保には代々幹部所員は苦労したようです)。
前川さんは「サイフに見合うもの」と良く言っていましたが今でいえば、時間を経ても美観が失われず、メンテナンス費用が少ないものという「ライフサイクルコスト」の重視ということでしょう。エイジングという言葉がありますが、竣工した次の日から劣化してゆく建築ではなくて、古びても美しく古びるものを重視したのでした。また当時レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を前川さんは読んでいましたが、今で言うところの、環境負荷を小さくしエネルギー消費量を小さくするような建築づくりには相当気を使っていました。それが打込みタイルなどへ結びついた面があると思います。
敷地のイチョウから名づけられた「ぎんなんの会」は前川さんが言い出したもので(命名は現場所長)、竣工後も続いていたそうです。施主、設計者、施行者三者が一年に一回集う会です。思い出話に浸る会かと思いましたら、そうではなく集まるとまず施設をよく見て、ちゃんとしているかどうか確かめるのです。そういうわけで我々所員は設計後の建物に対してもある種の責任があると感じ、行動するよう心掛けているわけです。
最近他の建物で四十年程度を経ての改修に携わる機会がありました。その折、建築は思っている以上に傷むものだということを痛感しました。その原因は物理的な劣化と同時に、わずか四十年でニーズが変わり、その為に建築の使われ方が変わり、それが原因でみすぼらしくなってしまうということです。改修計画時に、「建て替え」などという声が聞こえることもあります。欧米の意識調査では、建物の寿命が百年以上と考えるのはザラで、ほんの四十年で建て替えを云々するのは木造の伝統に根ざした極めて日本的な文化の帰結かとも思います。生きているうちに自分の育ってきた環境と時代が失われることに繋がり、歴史は継続されず、やはりオカシイことだと思います。公共建築の使命は永続性にあります。改修したり増築したりしてしたたかに生きながらえる建築は、爆撃を受けたドイツ都市などの建物に多いですが、文化と歴史を継続しようとする執拗な姿勢には感銘を受けます。そういう努力の結果、「美しい国」が残されてゆくのです。
岡田信一郎さんが設計した古い都美術館へも、私たちは学生時代よく訪れたものでした。大階段と列柱のギリシャ的な相貌とか、大きく吹きぬけた展示空間も懐かしく思い出します。今の講堂の壁に当時のレリーフがあります。今にして思えば旧美術館の歴史を何かもう少し残して置けたらと、いう気もします。歴史が繋がってゆくことが建築の使命の一つだと思うからです。
前川國男は樹木ほか既存の環境を大事にしてプランニングを行いましたが、大樹も大分老齢化してきたような気がします。今後都美術館は新しく脱皮してゆくことを求められると思いますが、木に竹を繋ぐのではないような新しい時代への対応が求められるでしょう。残す部分と変えるべき部分をきちんと整理し、新機能への確かな技術的検討を加え、次代に羽ばたく新美術館に生まれ変わってほしいと思います。
十年ほど前に東京文化会館を改修し、また西洋美術館の免震レトロフィットを計画していた頃、旧建設省の音頭取りでUCCC(上野カルチャーシビックコア)という組織が出来ました。上野公園内の美術館・博物館の関係者、設計者が一堂に会し、上野公園内の文教施設をどう関連付けてゆくか、上野公園の一体性をどう整理してゆくかの協議が行われました。都美術館のアプローチとも絡みますが、上野公園全体の中で都美術館をどう位置づけ、人の流れをどう整理してゆくかも課題です。ひとり建物だけの問題ではなく、公園全体の動線の整理が必要となるでしょう。ご存知のように上野公園は文化施設、遊興施設、祭祀施設ほかがありその多面性は興味深いと同時に、混沌としすぎている面があります。サインと園路、搬入路の整備など避けて通れない問題があります。周辺の上野関係者はそれらに関心を抱き、都美術館のありようにも気をかけていると思います。複合文化公園とでもいうべき上野公園の中での都美術館のありかたをどう考えるかという視点が今後求められるでしょう。
(前川建築設計事務所建築担当役員)





