連携展
2013年5月4日(土・祝)~5月27日(水)
全国の主要な公募団体の中から選出された27の美術団体による合同展覧会。151名の作家の作品を一堂に展示し、今年の美術公募団体の旬がここに集結します。
本展は、全国の主要な公募団体の中から、公募展活性化企画審査会の審査を踏まえ、選定された美術団体27団体の合同展覧会です。昨年度に引き続き、今回が第2回展となります。各団体より選出された「公募団体の顔」ともいうべき作家を含む、今年の旬の作家151名を一堂に展示し、美術公募団体展の魅力を紹介します。
当日券 | 一般 1000円 / 65歳以上 700円
団体券 | 一般 900円
※団体割引の対象は20名以上
※学生以下は無料
※身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添いの方(1名まで)は無料
※いずれも証明できるものをご持参ください
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○アーティストトーク
出品作家が展示室内で、自らの作品について語るリレー形式のトークです。 作品のテーマや見どころ、技法や制作についてのエピソードなどを、作家ご本人にお話しいただきます。
日時:2013年5月4日(土・祝)、12日(日)、18日(土)、26日(日) 13:00~
場所:東京都美術館 公募展示室 ロビー階 第1・第2、ギャラリーA、B、C(展覧会会場)
※展覧会入場券が必要です。
時間 | 5月4日(土・祝) | 5月12日(日) | 5月18日(土) | 5月26日(日) |
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13:00-13:20 | 吉崎道治(一水会) 洋画 |
能島浜江(日展) 日本画 |
大谷喜男(光風会) 洋画 |
松本高明(日本美術院) 日本画 |
13:20-13:40 | 福田篤(自由美術協会) 洋画 |
佐藤泰生(新制作協会) 洋画 |
田代甚一郎(国画会) 洋画 |
生方純一(二科会) 洋画 |
13:40-14:00 | 忠隈宏子(水彩連盟) 水彩画 |
広田稔(白日会) 洋画 |
三浦明範(春陽会) 洋画 |
奥谷博(独立美術協会) 洋画 |
14:00-14:20 | 星野美智子(国画会) 版画 |
本山正喜(美術文化協会) 洋画 |
佐藤龍人(東光会) 洋画 |
山本文彦(二紀会) 洋画 |
14:20-14:40 | 吉野毅(二科会) 彫刻 |
石田泰道(行動美術協会) 洋画 |
杉田英雄(旺玄会) 洋画 |
濵田清(一陽会) 洋画 |
14:40-15:00 | 齋藤学(新制作協会) 彫刻 |
遠山厚史(示現会) 洋画 |
柴田長俊(創画会) 日本画 |
滝沢美恵子(日本水彩画会) 水彩画 |
15:00-15:20 | 日原公大(二紀会) 彫刻 |
内山孝(日洋会) 洋画 |
福田玲子(主体美術協会) 洋画 |
広井力(モダンアート協会) 彫刻 |
15:20-15:40 | 辻元子(日本版画協会) 版画 |
三田村有純(日展) 工芸 |
西村祐一(日本彫刻会) 彫刻 |
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15:40-16:00 | 岡村光哲(自由美術協会) 彫刻 |
大久保澄子(春陽会) 版画 |
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16:00-16:20 | 中村義孝(一陽会) 彫刻 |
吹田文明(モダンアート協会) 版画 |
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【二紀会】原田圭さん
■聞き手・文:とびラー 山木薫(2013年4月21日掲載)
3月10日、春の陽気に賑わう上野・都美で開催中の公募団体展「春季二紀会」で、原田圭さんの最新作《通り道》を見ました。
「ベストセレクション 美術 2013」の出品作品《冬の太陽》のような瑞々しい透明感のある色彩とは異なり、《通り道》は不思議な不気味さをたたえた作品です。《冬の太陽》から《通り道》までこの一年間を紐解きながら、原田圭さんに今の思いを語っていただきました。
原田圭さんは《冬の太陽》の中のベールに包まれ、はにかむ少女のよう、昔どこかでお会いしたような懐かしさが漂う東京藝術大学大学院生です。インタビューの質問一つ一つに「なんだろう…」と自答自問しながら慎重に紡ぎ出された丁寧な言葉は、原田圭さんがかもしだす作品のようです。外の喧騒から遮断された都美会議室は、徐々に原田圭さんの時空に包まれました。
《冬の太陽》2011年
――「ベストセレクション 美術 2013」の出品作品《冬の太陽》について教えていただけますか?
冬のぼんやりした太陽に、光の小さいものが寄り集まってぐるぐる回って動いている感じのイメージを描きました。土が流動的に丸く動くイメージがあって丸い枠を繰り返し描き、枠にそって箔を貼ったおたまじゃくしを描きました。この時はカエルの卵がとても気になりドローイングを多く描きました。人物のモデルは妹です。妹だと自然に作品に入れました。
――自然を描こうと思った理由は?
山形、東根で生まれ育ち無意識に植物、山、土などに囲まれていました。高校生の時に思考を集約する手段として絵に可能性があると考え、大学で絵を描こうと思いました。
大学で絵を描くようになってから、自覚的に冬という季節に注目するようになりました。冬は雪が積もって白く冷たい、でも雪に光が当たると眩しかったり、雪が溶けたところの色味が変わったり、雪のでこぼこしたところが反射され、いつもと違った冬の光の景色があります。空がグレー、地続きで景色を見ていくと太陽が白く光って目立ち、冬は光に敏感になります。それで冬の太陽を描こうと思いました。
――制作にはどれくらい時間がかかりましたか?
スケッチ、ドローイングを繰り返し、作品の構成を決めるまで時間がかかります。《冬の太陽》は東北芸術工科大学院(山形)の卒業制作だったので、気負い過ぎて特に構成を考えるのに時間がかかりました。そこで決めた構成がタブロー、完成作品に繋がりました。描き始めたら構成は変わりません。期日まで一か月間で描きました。
――テンペラの技法を選んだ理由は?
大学の授業でテンペラに触れ、描き始めました。昔から鉛筆の感覚が好きでテンペラは油絵具より鉛筆の感覚に近かったのです。今は自分が描きたい感覚に卵テンペラが合ってるんです。卵テンペラは、卵黄と顔料と水を練り合わせて絵具を作ります。乾いたら耐久性があり、触れる感じ、絵具が画面についた感じが油絵具ほどの強さはないですが、テンペラの物質感が自分の感覚に合った方法で、使い始めて4年目になります。卵は身近な食べものなので、卵を使うことは生きていることと密接している、その感じが好きです。
絵具が伸びない、滲み、ぼかしができない、色の重ね方はしっかりと計画しないとうまく色が載せられない、無理やり色を重ねると画面がひび割れるなど、思い通りに行かないところもあります。でもメディウムは表現したいことに合わせていくものだと思うので、今は卵テンペラで描いています。もし油絵具しか知らなかったら絵が違っていました。卵テンペラに出会えて凄く良かったです。しばらくは卵テンペラで描き続けます。
――山形から東京へ移ってきて、作品への向き合い方、自然観などは変わりましたか?
前は作品に個人的な思いが強かったです。《冬の太陽》を描いた時は何かと繋がる接点に興味を持ち出し、深いところに行けば行くほど繋がるものがあるような気がしました。今まで山形で目の前に植物とか山とかが見えて風土が洪水みたいに存在し、無意識に自然の風景、風土に振り回されたように思えました。《冬の太陽》から少しだけ自然と遮断して「絵のイメージを自分に引き寄せよう、自覚的に主導的に絵のイメージを持てば違うものが見えてくる」と思うようになりました。今は植物でも何でも、その個体として絶対交わらないけど奥に行けば行くほど繋がるものがあるかな?と考えています。
社会の中で人間は生きていますが、それだけでなくもっと深いところで人間は生きている、何か繋がっていると思っています。
《通り道》2013年
原田圭さん(右)と山木(左)
――二紀会に出品するようになったきっかけは?
二紀会は東北芸術工科大学のゼミの先生が出品されていて、そのご縁で《通り道》を出品しました。
――公募展「春季二紀展」の出品作《通り道》では髪の毛が細かく描かれていますね。
以前は髪の毛を描くと、イメージとなじまない感じがして、髪の毛を描かないことで女性と限定せずに「人間」にしていました。最近は人と髪を分けて考えるようになって、《通り道》では髪の毛を緻密に描くようになりました。
――他の部分でも変化したところはありますか?
これまで色彩は落ち着いた感じの色合いに納めて行く感じでしたが、卵テンペラに慣れてきて色を使おう、色を載せようというのが今の段階です。
以前は作業が遅く、掛かる時間もそれぞれ作品で異なり、締切が作品の終わりでした。今は作業のペースが上がってきて締切までゆとりができ、逆に終わりを決めるのが難しくなってきました。前よりイメージが明確でないと終わらなくなってきて。その点、《通り道》は比較的早く描けました。
――これまでどんなものから影響を受けてきましたか?
テンペラを始めたころは、中国の仏教の壁画、イタリアの壁画などの写本を見て色の重ね方など参考にしていました。中でも東京藝術大学の油画技法材料研究室から出版された「トンプソン教授のテンペラ画の実技本」(注1)は私の参考書です。それで東京藝術大学を受験し現在その研究室にいます。在籍していた東北芸術工科大学大学院で日本画の方々から道具を習い、交流し影響を受けました。テンペラも水で溶く、日本画も膠で溶く、どちらの手法も同じに思えます。
それからイタリアの古城で見つかった「ヴォイニッチ手稿」(注2)、インターネットで知りました。今まで画集を見て卵テンペラの色の載せ方や、重ね方などを読み取ろうとしていました。ドイツの美術館でテンペラ画を見た人から、予想以上に凸凹があるということを聞き、一度は本物のテンペラ画をみたいと思っています。本物を見たら今までのことが覆されるのではないかという気がします。
それから塔本シスコさん(注3)、高齢になってから絵を描き始めた油絵の方です。故人ですが凄い方です。また、図書館は大好きな場所です。図書館に行くと枝のように本に引っ張られる。本からいろいろな発見があります。
――来館者へのメッセージをいただけますか?
作品は自由に見てほしい。具象画なので見る方に考える隙間があればよいな、と思っています。作品のイメージがあるのですが、自分でもわからないところもあるので見る方もわからないところは回答なくわからないままで空けておいてほしい。
――今後の活動について、どのように考えていらっしゃいますか?
今はこれが精いっぱいです。これからどうなるか、わからない。まだ自分の中で描きたいものが全然描けていない。いつも描きたいものがあるはずなのに、やっぱり絵に落とそうとするとすごく難しい。描きたい、描けない、その繰り返しです。
最近学外に発表するようになってからは、他の作家の作品を見るようになって自分の作品と比較するようになり、さらに頑張ろうと思うようになりました。もっと努力します。頑張ります。
★インタビューを終えて
原田圭さんは山形の風土が育んだ現代の雪の精のようで、筆を持ち、卵テンペラを描くことで頭がいっぱいでした。原田圭さんの純粋に描くことに向きあう姿勢に感銘しました。自然も人も全て引き寄せてこれから作品は、絵の中の少女が持つ枠はどうなっていくのでしょうか?これからが注目です。原田圭さん、貴重なお話をありがとうございました。(とびラー・山木薫)
<参考>
テンペラの手法
卵黄のみ(卵黄+顔料)/テンペラグラッサ(卵黄+油+顔料)/混合技法メディウム(卵黄+油+水+顔料)
(注1)「トンプソン教授のテンペラ画の実技」/テンペラ画の実技解説書の古典『絵画術の書』(チェンニー二・著)で述べられているジョット派の技法について、実習に基づき、著者が解説した。原題「The Practice of Tempera Painting」は、欧米諸国でロングセラーとなった。
(注2)「ヴォイニッチ手稿」(ヴォイニッチしゅこう、ヴォイニッチ写本、ヴォイニック写本)/暗号とおぼしき未知の文字で記され、多数の彩色挿絵が付された230ページほどの古文書。暗号が解読できないので、内容が不明。作成時期は14世紀から16世紀頃と考えられている。
(注3)塔本シスコ(とうもと・しすこ、1913年~2005年)/日本の素朴派の画家。熊本県出身。48歳の時に脳溢血で倒れた後、手足のリハビリをかねて独学で絵を描く。日本では山下清や谷内六郎とともに素朴派の画家とされている。
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【日展】青木清高さん
■聞き手:とびラー 鈴木愛乃、山木薫/文:鈴木愛乃(2013年4月21日掲載)
「ベストセレクション 美術 2013」の出品作品《響きあう心》
青とも緑ともつかぬ、深みのある絶妙な色合い。風が撫でているようにも、波が打ち寄せているようにも見える、表面をめぐるゆるやかな曲線。やきものの地・佐賀県有田で青磁を中心に制作を続けられている青木清高さんのこの作品は、清涼な香りに満ち、豊かな表情を湛えています。青木さんの手によって一塊の土がどのように魅力ある「作品」へなっていくのか。制作について、またやきものへの思いについてお話を伺いました。青木さんの穏やかな語り口から滲む熱意をお伝えできればと思います。
――今回「ベストセレクション 美術 2013」に出品される《響きあう心》には、どれくらいの制作期間をかけられたのですか?
半年くらいですね。どこが難しいかというと、青磁は釉薬を非常に厚くかけるものなのでぼってりとした形になりやすいのです。掛ける前の形はくっきりしたウェーブだとか、彫りの感じ、波の感じを出していました。釉薬は5ミリくらいの厚さがあります。釉薬が厚ければ厚いほど発色が美しくなるので、形との兼ね合いが難しいところです。
――素焼きの段階のときは随分と薄いということですか?
そうですね。触ったら手が切れそうなくらい鋭利な印象に出来上がります。
――制作に取り掛かられる前に、「こういうものを作ろう」という構想はどのくらいまで考えておられるのですか?
ろくろで自然に作っていって成り行きに任せて形を作る、ということはあまりしないんです。なるべく大きく見せるために、どういう形がいいかを考えながら作ります。窯の中で焼成すると重力で土が垂れるので、そこを予期して成形しています。ですから、素焼きのときはもっと角度をつけて作っています。
――成形の段階からそこまで考慮されて作っていらっしゃるのですね。
そうですね。やっぱり有田の磁器の場合、例えば望龍碗(もうりゅうわん。坂本竜馬が愛用したとされる、龍の文様のある蓋付の器。波佐見焼と三川内焼でそれぞれ復元されている。)のようなお茶碗を作るとき、側面には丸みを持たせますが、立ち上がりのところは直線的に持ち上げておきます。そうすると焼きあがったときに、縁の曲線と、立ち上がりの直線が垂れて曲線になったところが繋がって、綺麗な丸みになるのです。最初から立ち上がりを曲線で作ってしまうと、土が落ちてきてしまうんです。
――作品の大きさにはこだわりや意図があるのですか?
特別にはないです。だいたい一本の土で作り上げるのですが、何本も土を繋いで作った場合、焼きあがった時に繋ぎ目のところが見えるんですね。ですから一本で作れるぎりぎりの大きさで、このような直径50センチくらいの作品となるんです。土一本が大体15キロですね。
――釉薬もかかると、最終的にはどのくらいの重さになるんですか?
15キロの土を成形して、削って、レリーフを付けるとまた15キロくらいに戻って、釉薬がかかると最終的に20キロくらいになります。薬で5キロくらい増えます。焼く前の、生の時の方が水分もあって重いですね。
――焼締めることで縮みますか?
そうですね。生の時よりも2割縮みます。
――この作品の表面のさざ波のような部分は、どのようにして作っているのですか?
かなり離れたところから器の風景を眺めながら、強くなったり、弱くなったりしている調子を見て模様を決めます。色々な線を削ってから土をつけていくやり方が多いです。以前父が東京で買ってきた丸い枠がついている金属の棒を使って削っていますが、今はどこにも売っていないようです。会場での光の当たり方も考慮します。例えば薄暗いお堂の中の仏像は衣のひだの流れが美しいです。そのひだを見ていると、光の向きや加減で随分と違う表情を感じることがあります。この器も、下から光を当てるとのっぺりした感じになってしまう。青磁の釉薬は厚いですから、釉薬がたまって青みが濃くなるところなどにも気を配ります。
――作品の風景を完成だと思って、作業をやめるタイミングはどのように決めていらっしゃるのですか?
自分が狙ったところがぴたっと合ったところで止めます。けれども気持ちに左右されることもあって、よしと思ったものでも次の日に手直しをしたりもします。人間の感性にぴったり合う曲線を目指しています。
――作品の色について教えていただけますか?
一番苦労しているのが色なのです。青磁の色というのは、緑にも感じるし、青にも感じる複雑な色合いが特徴です。単純な色だけど深みのある青というのを出そうとしています。
――御苦労なされたところでもあるし、意識されて作られているというのが色ということですね。
そうですね。だから釉薬のテストというのは何回も繰り返しています。釉薬の中に自然の灰を混ぜてやると、展覧会会場に置いた時にはっきりわかります。人工的なもので着色してしまった場合は、クレヨンで塗ったような、プラスチックみたいな感じになる。やっぱり、中国では玉を目指して青磁を作ったといいますから、叩き割っても中まで青磁であるようなやきものを自分は作りたいのです。例えばガラスの板は一枚で見れば透明ですけれど、それを横から覗き込むと緑色に見えるときありますね。あれはガラスの中に含まれる微量な鉄があのような緑色を出すんです。青磁も、何層も何層も釉薬を重ねていって、青を作ります。一層目くらいは透明な薬なのですが、二層、三層と重ねていくうちに、青く発色するんです。また、釉薬の種類はたくさんあります。この色に行きつくまでに、1983年頃から約600種類くらいの釉薬のテストをしています。青の色だけではなくて、釉薬の肌合いというか調子、溶けぐあいというのも重要なポイントです。ピカピカに光る薬もあれば、しっとりとした仕上がりもできる。その辺りは窯の扱いとも関係してきます。どの辺で温度を上げていって、どの辺で止めて、ということで釉薬の溶け具合は変わります。
鈴木(左)と山木(右)
青木清高さん
――焼く前の段階では、どのような色ですか?
釉薬は濃い灰色で、土は黄土色です。焼き上がりの青磁の色を想定しながら、形を決めています。
――この作品に至るまでに何年くらい作られてきたのでしょうか?
これに行きつくまでに20年くらいかかっていると思います。以前はやはり中国の昔の青磁の色を目指していたんですけれど、今はそういうものを基礎にしながら、今の自分しかできない青磁の色というのを作り出そうとしています。
――今、作り出そうとしている青木先生ご自身の色というのはどのような色なのですか?
私が今活動している日展という世界は、古いものを基礎に蓄えたうえで、きちんと自己表現をしていかなければいけない。中国のものだけを追い求めてどんどんやっていくと昔のものの再現になってしまう。そこで他の色を加えることで自分の表現をしようともしています。例えば表現したいものが夕日であったり、水平線の向こうの空との境目であったりしたときに、紫色を加えてみたりなどです。もともと青磁というのは一色で成り立っているジャンルのやきものですから、変わったことをしようとするとどうしても無理が出てくる。自分自身でも無理があるかなと感じるときもありますけれど、最初はそれでいいと思うんです。そうやって崩しながら自分の物になっていくと考えています。最初は暴れるような状態の物ができてくると思うんですけれど、徐々に品のあるものができてくるのではないかなと。
――この《響きあう心》というタイトルについて教えていただけますか?
これは、ちょうど東日本大震災のあった年に作ったんです。日展に出品する半年前くらい、作り始めの頃に震災が起こって、テレビで阪神大震災の時の被災者の方が、東北で被災された人たちにエールを送っているニュースが流れているのを見ました。それで人間同士が助け合うということのとても感動して、そういうタイトルで何かできないだろうかと考えて、作りました。
――今回、このベストセレクション展に出品されることについてはどう感じていらっしゃいますか。
周りを見れば素晴らしい作家の方がたくさんいらっしゃいますし、光栄なことだと思います。
――陶芸の道に進もうと決められたのにはどういうきっかけがあったのですか?
それはやはり、代々やきものに携わっていた家に生まれましたから設備もありますし、自然にそうなりました。
――陶芸の中でも青磁を選ばれたのはなぜですか?
最初は天目という黒いやきものをやっていたんです。父が天目の作家だったのですが、始めたころは自分の薬も土も何にも持っていなかったから、傍にある父のものを使って焼いていました。ちょうど平成に入る頃に日展の研究会の中で偉い先生から、「自分の世界を表現したいのであれば、借り物ではなくて、自分で見つけてきた土や薬で勝負してみるのもいいんじゃない」と言われたんです。もともと青磁がとても好きでしたから、天目をやりながらも有田の佐賀県立窯業試験所というところで、研修生として青磁を勉強していました。将来やろうという気持ちは特別なくて、好きだからやっていたんですけれどね。
――陶芸をやる一番の魅力は何ですか?
一般的によく言われますが、「無から形のあるものを生み出す」ということはありますね。残ってしまうという怖さはありますけど、窯を開けていいものができているのを見れば、「うわあっ」と感動します。
――こうした展覧会に出品する作品だけではなく、実用性のある器なども作っていらっしゃるそうですが、作る際の気持ちの違いというのはありますか?
作品を作るときは、完璧な物を作ろうと思っていますから、緊張感をずっと持っています。実用性のある器を作るときは、例えばぐい飲みだとか、くつろいでいるときに使うものですから、くつろいだ気分で作らないといけないんです。女の人だったらこの太さだと持ちにくいなど、使い手の使いやすさを考えながら作っています。
――作品を作るのと、実用性のある器を作るのとでは、対象に対する思いが全然違うということですか?
いや、そういうわけではないです。どこかに私らしさというものが出てしまいます。以前個展を開催した時、この作品とはまた少し違った感じのものも展示しましたが、来場者の方からこの展示室にはゆったりした空気が流れているような気がすると言われたこともありました。
――青木さんが作品を作るときに影響を受けている物はなんですか?
自分が生まれ育った有田、唐津の自然の色です。有田の空の青や、竹林の緑色などを作り出そうとしています。
――では、制作において、昔から今も変わらずこれだけは忘れないようにしているという芯の部分のようなものはありますか?
白磁を作っておられる中村清六先生のもとへ師事していたころから気を付けているのは、品位を保ち続けることですね。品格のあるものを作りたいと常に思っています。
あとはろくろです。今の新しい陶芸作品は、ろくろを使わなくてできるものがたくさんあります。2、3年間はろくろを使わない形に挑戦したこともありましたが、その後ろくろに戻った時、以前よりより良いろくろ作品ができるようになりました。
――これからもろくろにこだわって作られるのですか?
ろくろで出来うる限界の中で作品を作り続けます。
――作品をどういう場所に置いてみてほしいと思いますか?
人がたくさんいるような、ざわざわしたところに真ん中に置いてあるといいと思います。ビルがたくさん立ち並んでいるところだと、自然を切り取って持ってきたように感じていただけるのではと思います。
――今は天目も再び作り始めていらっしゃるそうですが、今後の活動について教えていただけますか?
天目を作っていた父親の真似になってしまわないよう、土も薬も自分で持ってきたもので、自分だけの表現が出来るように挑戦しています。
――次の世代への継承ということについては、どのようにお考えですか?
若い時分には自分が天目をすることを父親が良く思っていなかったようですが、自分が息子を教える立場になってその気持ちが分かります。息子にはやはり、まだ青磁をやってほしくないですね。自分が青磁を作れなくなったころにやってほしいと思います。
――作品を見る方にどういうことを伝えたいですか?
青磁は過去のものだと思っていらっしゃる方も多いですが、そうではなく、現在を生きる青磁もあるということを伝えたいです。
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【独立美術協会】木村小百合さん
■聞き手・文:とびラー 小野寺伸二(2013年5月26日掲載)
――今回「ベストセレクション 美術 2013」展への参加を推薦されてのご感想は?
去年、会員に推挙していただいたばかりなので、新会員の立場で出品していいのか一瞬不安で、『私で大丈夫なんですか』と事務局の先生にお尋ねしたところ、『“独立”はベテラン作家2名と新会員2名ということで選出しているので、心配しなくて大丈夫ですよ。新会員として、今回のような展覧会に選ばれるのは光栄なことなんですよ』ということでしたので、それならと喜んでお引き受けしました。
――独立美術協会に参加するようになったきっかけは?
公募展に出そうと思って描いた作品の完成した時期が、“独立”の搬入時期と重なっていて、独立展は以前にも観に行ったことがあり、骨太な作品が多くて感動していたので、それならダメモトで出してみようかなと思って出品したのがきっかけでした。
――制作時期とのタイミングが合ったのが独立美術協会だったんですね。
最初は入選したのですが、2年目は落選でした。それでも、繰り返し出品しているうちに「“独立”愛」みたいなものにも目覚めてきました。
――独立美術協会に入ってからどのくらいになるんですか?
ちょっと休んでいる時期もあったのですが、27~28年になります。
――では、結果的に独立美術協会はご自分に合っていたということでしょうか?
自分の力量はともかく、“独立”に出品されている先生方の絵は濃いんです。迫力がすごいんですね。ひとつ展覧会を観ると、ぐったりして疲れてしまうくらい作家のエネルギーや、魂の入れ方がすごくて、それが見応えがあっていいなぁと思ったんです。さらっと観て終わらないところがいいなぁと。
「ベストセレクション 美術 2013」出品作品
《どこから?》2012年
第79回独立展出品作品
《どこから?》2011年
――それでは木村さんの作品《どこから?》についてお伺いしますが、制作にあたってテーマは何かありますか?
はい。特にエンジンの力強さと人間の持っている生命力の強さのぶつかり合いをテーマにしています。この両者はどちらも負けないくらい強く、パワーに満ち溢れています。この感動を画面に表現したく克明にその相克を描きたいと思っています。人間とマシンとのエネルギーのせめぎ合いみたいなものでしょうか。つまり産業革命以来、機械と人間はそのはざまで格闘を繰り返してきました。人間性が機械に支配されるか、または機械を使いこなせるかが私のテーマです。しかし、その両者は実は別々の対立するものではなく、ほとばしるエネルギーとして根本は同じであると思います。
――絵に登場する人物の手や足が、飛び出してくるように拡大されて描かれていますね。
まず、小さいエスキース(試作のための下絵)を描くのですが、作品の大きさに拡大すると、思っているほど迫力がないんです。そこで、そこからまた不自然なまでに手や足を拡大して描くんです。3Dを意識したりもしますし、エスキースも何度も描き直します。
――過去の作品と比べると、拡大されている部分が、どんどん大きくなっている印象があるんですが。
そうですね。やっぱりもっと、やっぱりもっと、と大きくしている感じです。それでも美術館に並べると、あまり大きさを感じなくなってしまうんですが、これでも足のサイズは130センチくらいあるんです(笑)。
――足が裸足だというのも特徴的だと思うのですが。
足の裏の皺とか明暗を克明に描き込みたいというのがあって。そこが面白いというか。モデルはうちの姪なんですが、バレエをやっているので、足がグッと曲がるんです。それをグッと押さえつけて、ハロゲンランプを当てて、写真を撮ります。足の裏により皺が寄るようにして、逆光で撮るんです。その皺とか、逆光でできる強い影を克明に描くことにこだわっています。これだけ大きい足なので、ただそのまま描くと面白くなくなってしまうんです。だから、大きな足に負けないように思いっきり描くことを心がけています。
――今回の出品作を描くにあたって苦労した点は?
やっぱり、拡大した部分のデフォルメですね。拡大した中で、さらにここを拡大しようとか、指はもっと太くしようとか、何回も拡大して描いたとか、作業的にはその辺ですね。
肉体的には、点描で描いている部分も多いせいか、肩こりと腕のしびれがすごいんです。整体に行くのですが、絶えずしびれてしまって。だから、途中からキャンバスからパネルに張り替えて、テーブルの上に置いて描くんです。そうすると、中央部には手が届かないので、今度は床に置いて、日本画の方がやるように作品の上に木を渡し、その上に正座して描くんですよ。すると、手は楽なんですけど、次は腰に来るんですよね。だから、最後はパネルの上に板を置いて寝ころがって、クッションを抱えてうつ伏せになって、ひたすら点を打ち続けました。そうすると今度は首に来ますけど(笑)。1週間ごとに体勢を変えて描くんです。
そうやって朝4時くらいまで点描を打っていて、ふと窓に映った自分の姿を見て、こんな人生でいいのかなぁと思うこともあります(笑)。夜中じゅう点描で足の裏を描いているのって変かなって、我に返るときがあります。このような私そのものの姿が鏡のように画面に写し出され、エイッとばかり足が空中に飛び出しています(笑)。
木村小百合さん(右)と小野寺(左)
――そんな描き方をして、よく大きな手や足のバランスを崩さないで描くことが出来ますね。
最後は力を振り絞って、また絵を立てて、整体に行って、栄養ドリンクを飲んで(笑)、立てた状態で描ききるんです。やっぱり、寝かせたまま描いているとバランスが崩れているので。栄養ドリンクに使う金額もだんだん上がっていくんです。
――仕上げの時期の迫力が伝わって来ますね(笑)。制作時間はどのくらいかかりますか?
朝から夜まで、あらゆる時間を削って、毎日描いて3か月です。エスキースはその前に描いたこの作品はトータルすると、半年近くかかっているかも。地塗りを始めて3か月です。朝も昼も夜中も描ける時は描いてそれくらいかかります。
――以前の作品と比べると、だんだん使われている色が少なくなっているようですが?
色を絞り込んだ方が迫力が出てくるというか、色があると色に頼ってしまって、伝えたいものがバラけていたんです。モノクロに近づけたことで、自分の描きたいもの伝えたいものが絞り込めてきたという感じなんですね。もともと、モノクロで描いて、最後に色を足すつもりだったんですが、このくらいでもいいやって感じになって、次からは計算してモノクロで行こうということになりました。
――今回の出品作には女性が描かれていますが?
独立展は3点ずつ出品することになっているのですが、そこに初めて女性を描いたとき評判が良かったので、今回も女性にしてみました。力強い女性という現代性を込めて描いています。
――ちょっとセクシーなコスチュームを付けていますね?
実は別の作品で女性を描いたとき、下着を付けているかどうか曖昧な感じの絵だったんです。それを見た人に『これはきっと男性にウケるためにこういった絵を描いたのでしょう』って言われたんですが、そういうつもりもなかったのに、言われたからといって今度はお尻を隠して描くというのもしゃくだから、そこを変えずに描いた上で、それ以上にもっと別のところを凄いと言われるくらいに描いてやろうと思いました。
――絵のどのあたりから描き始めるのですか?
ハーレーダビットソンのパーツあたりでしょうか。そのあたりは機械的な作業なので淡々と描いています。人物、特に手や足の拡大した部分は思い入れも深く、最後の最後まで描き込んでいますね。絵に額を付けた後でも描いていたりします。
――もともと、このような作風だったのですか?
以前は仏頭を描いていました。京都に住んでいるので、仏像を見る機会が多いんですよ。私は京都の仏像より奈良の仏像に惹かれます。京都の仏像は貴族文化できれいなんですよ、金箔が貼ってあったりして、宗教的で装飾的な感じがします。それに対して奈良の仏像は、乾漆も木彫も仏師の思い入れみたいなものが入っているような気がします。シルクロードからや大陸の影響もあってデフォルメもあり得ないような感じがして面白いんですよ。心惹かれる仏像は色々ありますが特に運慶が好きです。金剛力士像とか、肌のハリ感やデフォルメがあって、実際にはないほど、関節が曲がっているような関節外し技を使っていたり(笑)。バイクシリーズの前は仏頭にパーツが刺さっているような絵を描いていました。
――迫力のあるものがお好きなようですね。何か理由があるのでしょうか?
子供の頃に北野天満宮の近くに住んでいて、天満宮を通って幼稚園に行っていたんですけど、その社務所にたくさん絵馬がかかっていて、それに武者が馬に乗っている絵が描かれていました。それがとても好きだったんです。
――だから、馬の代りにハーレーを描いていらっしゃるのかもしれませんね。
そう言われるとそうかもしれません。現代的なものを描いているんだけど、実は手足のデフォルメは運慶の仏像や武者絵から影響を受けていたりするのかもしれませんね。
――他に影響を受けた芸術家はいますか?
学生の頃ジョット(中世後期のイタリア人画家)が好きで、イタリアに行った時に実際に壁画を見た時は鳥肌が立ちました。固さの中に詰まっているエネルギーや目力のようなものを感じました。あとは京都に住んでいるので、光琳や宗達を観る機会は多いんです。それらも、デフォルメされていたり、デザイン化されていて強いところがあるじゃないですか。そんなところも好きですね。
――今回の作品の出来に関してはどう思いますか?
これでいいとは思わないけれど、これが今もっている私の精一杯というところまでは描きました。独立展から「色紙に絵を描いてください」と言われたんですけど、エネルギーが残っていないというか、絞ったチューブのように出し切ったから、その色紙も描けませんでした(笑)。
――作品のどのようなところを観てもらいたいですか?
そうですね、やっぱり描き込みですかね。今は、パソコン使ったり、プロジェクター使ったり、転写したりというのがありますけど、私はすごいアナログで、一から点描を重ねて描いているので、そのアナログ感を観てほしいと思いますね。全体だけでなく、近くに寄って観てほしいです。
――今後の活動について何か教えていただけますか?
次は今年の秋の独立展向けに200号の作品を予定していて、4~5日くらい前からエスキースを制作し始めています。大きくなるので気力も体力も必要だと思うんですけど、しばらくは今の仕事量で、手抜きすることなく、体力の続く限り、このテーマでやっていきたいと思っています。女性が主体で、ちょっと男性も登場する予定です。
――最後に、東京都美術館についての印象を教えてください。
昔は独立展の会場はいつも東京都美術館だったんです。だから、独立展がここで開催されなくなる(現在は、国立新美術館で開催)のはすごく寂しかったんです。初入選から何十年もここだったし、初受賞もここだったので。だから、「なんでトビカンでなくなるの~」って(笑)。別に新しい所が悪いわけではないんですが、絵の前にずっと立って批評受けていたのもここだから、思い出深い場所なんです。
――では、今回の「ベストセレクション 美術 2013」展への参加は里帰りと言えるかもしれませんね。
そうですね。
★インタビューを終えて
最初から最後まで明るく朗らかに語ってくれた木村さんでしたが、作品制作中は「最後は、しんどい、しんどい、しんどいで、とても他人様にはお会いできない状態で、サポーター巻いて、湿布貼って、整体行って、栄養ドリンク飲んで。それを人に話すと『それは、おっさんやないか』と言われます(笑)」という状態なのだそうです。そんな、時間とエネルギーを絞り出すようにして生み出された作品の持つ迫力を、ぜひ本物の作品を目の前にして味わっていただければと思います。(とびラー・小野寺伸二)
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【日本彫刻会】市村緑郎
■聞き手・文:とびラー 大坂靖、山木薫(2013年5月27日掲載)
公募展「第43回日彫展」の初日に、日本藝術院会員であり同会理事長も務められている市村緑郎先生の彫刻作品《残照—祈り》に接しました。若々しい女性の姿態を通して、人間が文明の発展のみを良しとし、自然との共生をないがしろにしてきたことなど人間の反省を込め、被災者再起のきっかけになにがしか寄与することを願って制作されたという、思い入れの深い作品でした。
市村先生は教育者としても長く携わってこられ、その柔和な笑顔と丁寧なわかりやすい言葉で、彫塑家、そして指導者としての熱い想いを語っていただきました。お話を通して光芒を放ち続けている作品の数々が強く印象に残りました。《残照—祈り》は、全国の主要な公募団体の中から選定された「ベストセレクション 美術 2013」に出品されています。
《残照—祈り》2011年
《雨光る》2011年
《彩風》2010年
――《残照—祈り》は、どのくらいの期間で制作されたのですか?
4ヶ月ほどかかっています。大学時代からやっている積み重ねが、こういう形で表れました。
――2011年、地震のあった年に制作されていますね。
ちょうど3月11日は個展をやっていました。制作したのはその後ですね。作品のテーマとして「地球の体系に根ざしたもの」があります。科学の一方的な進展、メカニックな文明を進めることによって、何か破たんが起きるのではと思っていました。あんなに自然に打ちひしがされたことはかつてなかった。今こそ「人間とは何か、その存在、どういう生き方でいくべきか」を試されている時期です。自然との共生と共創、自然との響き合い。母なる大地に対して本来の人間としてのあり方、文明で浮足立たないで自然の中で共に生きる。そういうことを願って、ちょっと寂しげな言葉ですが、《残照—祈り》という題で制作しました。
あの悲惨な状況を見ますと、どうしても「復興」という形でバーンと打ち出すことはできなかった。
――服のひだが身体の線に沿っているのが印象的です。
これは意図しました。いろんな災害を身にまといながらも立ち上がっていく、その感じを体にびしっとくっつけました。
――このポーズはどうやって決まったのですか?
制作しているうちにいろいろなポーズをつくっています。「『祈り』というのはどういうポーズなんだろう、本当に悲惨な中じゃなくても腕を両方上げたポーズもあるし。それでは悲惨な中でのポーズとは…」と考えた過程で決まってきました。
でも本当は指をもっと細くしたかった。スーと上に伸びるように。ちょっと俗っぽくなってしまって、造形化という点では、私はまだまだです。ふくらはぎなどもっと抑えたほうがよかった、と後で気が付きます。髪もおかしいし…、自分でも世話がないですね。
――制作にモデルは使われますか?
形は頭に入っていますが、モデルは使いました。しかしながらモデルに引き付けられ過ぎると作品を造形化できなくなる。こしらえる形になってしまいます。モデルを写すだけでなく、造形化している作品でないといけない。
――好きな彫刻は?
イタリアの彫刻が好きで、イタリアの作品は「ぼん」として繊細でないのです。今回の日彫展の出品作品はマンズ—(Giacomo Manzù、イタリアの彫刻家。1908年‐1991年)の作品に触発されて作ったのですが、手とか足とか(作為的に)作ってしまいました。これでは大きさがなく、残念ながら強さがない。イタリアのような大きな環境の中だと、地域に作品が大きく育まれていく。対して我々のように四季に恵まれて豊かなものに囲まれていると、作風が繊細になるのでしょうかね。風土の違いでしょう。
市村緑郎さん(日本彫刻会)
――彫刻の本質は何だと思いますか?
ボリュームだと思います。制作の途中で2階のアトリエに陽が横から射してくるんです。そして夜中は上から縦の光が入ってくる。また次の日、昼の光が横に入ってくると作品がスジだらけなんです。こんなひどい作品を作っていたのか、目なんてどれほどごまかされているか、自分は本当に見ていなくて、目線だけで形を作るのは恐ろしいことだと気付きます。ああでもない、こうでもないと夜に作って、昼の横からの光で覗いて作って、いろいろやっているとボリュームが出てくるんです。初めてそれに気がついたのは最近です。これは作品の外側からの攻め方で、本質的なものでないかもしれませんが。そうしているうちに自分の想いが作品の中に芽生えてくるように感じます。
作品は作るものでなくて、生まれてくるものだと思っています。「手が考えるように」とやっているうちに「なんでこんな良い作品ができたのだ!」と一時思う時もあるんですよ。でも後で見たら「なんだこれは…本当によく見ていたのかな」と思うこともある。技術と自分の中から出てくるものとが結晶するというか、一致したときに生まれてくる彫刻が具象彫刻ではないかと思う。
セザンヌは絵画のことを「脳髄が世界と接合するのは色彩だ」と言いきっています。ならば彫刻だったら私は「ボリュームが脳髄と接合する」と言えると思います。
――この道を志されたのはいつ頃のことでしょう?
もともと美術家になろうとは思っていなかったです。小学生の時「武者人形の絵」を描いて褒められ、描くことは面白いなと思っていました。茨城の下妻高校に入って美術部に所属しました。
その後、大学は違った方向に進もうと思って東京に出てきましたが、初めて美術館巡りをしたら、あまりにも圧倒されたので、それを機会に美術の方へ。美術館の作品に触れて美術に進むことになった。だから美術館は大切です。
ただ絵画はあまりにも色彩が多く、あれに取り組んだら大変なことになるだろうと考えました。それならあまり色彩のない、ボリュームで挑戦できる彫刻をやりたいと思ったんです。初めは男性像だけをずっと作っていました。女性像は埼玉大学に勤めるようになってからです。抽象の作品も作りました。具象は環境との関係で外に置くと弱い。一方で心の問題になってくると抽象では表しにくいです。でも彫刻は、抽象でも具象でも、造形的に訴えかける強さというものがあります。
――若い世代へのメッセージはありますか?
若い人たちは他の仕事も忙しく、制作時間が全然ない。思いはいっぱいあるけれど、こなし切れていない。もう少しやればド~ンと飛躍すると思う作品ばかりになっている。
ひと昔前まではじっくりと精神性を突き詰めて生きて行ける環境があって、私もうらやましかった。その中でどんどん立派な作品を作られた方がいました。本当は「生きるということはどういうことか」という模索の中から生まれてくるものが重要だと思うのですが、それは理屈であってなかなかできませんね。
――逆境の中から新しいものは生まれにくいものなのでしょうか?
そうです。作品を見ていてあとからあとから気がつくんですよ。それが大切なのに、若い人がそれをやっていると次の作品ができなくなる。もう一歩のところを気付かず、どんどん作品を作っていく。アイデアはすごく良い。だが、アイデアが自分のものになっていない。寄せ集めだから訴えかける力、自然さがない。
――情報過多の時代になり選択の時代でもある。自分なりのものを作っていくことができない環境もあるのでしょうか。
それもありますね。多い情報の中で分散されることなく、自分のものを早く見つけてほしいですね。自分のものは突き詰めていかないと生まれてこないんです。若い人は情報が豊かでどんどん器用に作れてしまう。技術的にできてしまうのでそれが結構良いこともありますが、「どうして作品として評価されるのだろうか」と自分自身あとで気付くことがいっぱいあると思うんですよ。
先日、美術評論家の加藤貞雄先生と「デッサンにおける絵画と彫刻の違い」についてお話をしました。加藤先生は「画用紙に一本の線を描くと、彫刻家の描く線は立っているんだ」と言うんですよ。暗示的な言葉かもしれないが。「彫刻家に対して、画家の描く線は面と面の接点だ」と言う。線が立って存在している。周りの空間の中に寝ているのではなく立っている。立体と平面の違いとして「そうあるべきだ」と加藤先生は言われていると思う。私はそれを聞いて「あ、そうか」と思った。ジャコメッティなんかがそうだ。「言葉って本質を顕在化させる」というけれど、すごく強烈な言葉として印象に残りました。
――ジャコメッティは線を突き止めていった結果、作品自体が自立できていないものもあります。そこまで突き詰めていく姿勢が必要でしょうか?
彫刻が揺れ動いて見える、生きて見える。加藤先生のお話では「そこまであるべきである」ということです。これから新しいものは問題ではない。「本質は何か」が大事なことです。
――2011年の《雨光る》について教えていただけますか?このタイトルの由来は?
これは頑張った作品です。ある大学で照り雨がさーっと降ってきたとき、学生が急いで校庭の真ん中で大の字になって空を見上げていました。立ったら影ができ、土に雨の跡が残っていなかった。それを見たのがものすごく新鮮な体験だったので、《雨光る》というタイトルにしました。
――作品はどういう場所に飾られたいですか?
例えば昨年度の日展出品作《彩風》は、公園の真ん中にあるイメージでした。公園という人の交差点の中で、さーっと風を身に受けながら立つ女神の像をイメ—ジして作りました。
この洋服の真ん中、スジが飛び出ているんです。これはスジを出した漆の上に、刷毛で砥の粉(とのこ、砥石を切り出すときに出る粉末。また、黄土を焼いて作った粉)でスジを伸ばしました。2年前の作品では被災の方を思って洋服のスジは出せなかった。
――普段、制作以外のときは何をしておられますか?
健康のために公園でフリスビーをしています。埼玉大学でも学生に負けません。50メートルぐらい飛ばせますよ。犬がいないので自分で歩いて取りに行きます。「70歩分も飛んだ!」とか、それが楽しみです。
――長年、子供のワークショップに関わってこられましたね。
今も日展会館などで中堅作家がワークショップを開催し、作品も展示しています。凄いですよ。学校でやることとは違い、年齢層も違いますので。父兄も一緒に作ることもあります。子供達はのびやかな作品を作っています。柔軟、のびやかでうらやましい。
――東京都美術館の印象についてお話いただけますか?
新しくなりアプローチが良くなりました。都美は美術館として親しみやすい。それが一番です。解放されていて、敷居が高くない。バリアフリーですね。
――屋外彫刻が迎えるのも良いですよね。
屋外にはパブリックアートとして環境に合った抽象がいいですが、日本人には具象が合っている。フェルメールや印象派が好きでしょう。抽象は海外の方が強い。美術館としては美術の先取りも大切ですね。
――変わりなく力強い作品を作り続ける秘訣は?
嫌いでないこと、作ることが好きなこと、作っていると苦にならない、作っていないと疲れる。それが一番大切です。作っていると晴れ晴れとする。才能がある、なしの問題ではなくて、作ることが好きなことが大切です。
――これからの夢は?
いろいろな身体的な束縛が出てきて大きい作品を作るのは難しくなってきましたが、本当に作品に没頭したい。横からの光が当たる、めっぽう密度のある、ボリュームのある作品を、あまり繊細さにこだわらず作りたい。
――次回の作品を楽しみにしております。
楽しかったです。とびラーとは芸術のとびらですよね。マークも良いですね。
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