歴史をひもとく

  • 文:山村仁志(東京都美術館元学芸員、府中市美術館館長)

東京都美術館100年のトピックを、各時代の出来事やニュース、話題、人物などに焦点を当てながら詳しく紹介していきます。
1926(大正15)年から現在(2026年)までの歴史を振り返って、美術館に関わってきた人々に思いを馳せるシリーズです。

  • *美術館の名称について:1943年7月の都制施行に伴い、「東京府美術館」から「東京都美術館」への名称変更されました。

❷ 100年にわたり、多くの来場者が訪れ続ける東京都美術館―生きることの喜びとその肯定を示す感情を思い出させてくれる場所(後編)

東京都美術館は、旧館時代(1926–1974年[大正15–昭和49])と、現在の前川國男設計による新館時代(1975年–)に大きく分けられます。 どちらの時代でも、大規模で入館者数の多い展覧会は、戦前戦後を通じて新聞社などが主催するマスコミ主導の特別展覧会がほとんどでした。そうした特別展と公募展は東京都美術館の二枚看板であり、それは今も続いています。東京都美術館の主な歴史的役割は、国家、マスコミ、そして公募団体が開催する美術展のための場所、いわゆる「ギャラリー」としての機能でした。
しかし、100年の間に戦争や経済恐慌によって激動してきた社会動向とは別に、毎年かなりの人々が、ほぼコンスタントに上野の東京都美術館を訪れ続けてきました。その底力になってきたのは、やはり公募団体の存在だったと思います。全国各地の小中学校の教職や農業などで生活しながら、毎年作品を作り続けてきた各公募団体の出品者と、彼らの作品を鑑賞し続けてきた美術愛好者が、毎年の東京都美術館の入館者という数字と歴史の背後にいました。
南嶌金平は、そのような出品者の一人でした。彼は、信州大学教育学部附属長野小学校など、飯田市、下伊那地方の小・中学校の教員として勤めながら一水会に毎年出品し続けていた画家でした。南嶌金平の次男で、美術評論家だった南嶌宏は2012年に東京都美術館について、次のように書いています。

「東京都美術館は東京都によって運営されながら、まさに『国民美術館』としての役割を果たしてきた唯一の存在であり、全国の無名の美術家にささげられてきた美術館であった。(中略)生きることの喜びとその肯定を示す感情を思い出させてくれる場所、そして、どんなに感謝してもしすぎることのない思い出の場所、それが東京都美術館である。」(『東京都美術館ものがたり』鹿島出版会 2012年 p. 64)

  • 南嶌金平
    南嶌金平
  • 南嶌金平《かまど周辺》1958年(第20回一水会展出品)
    南嶌金平《かまど周辺》1958年(第20回一水会展出品)

「公募団体の聖地」とも呼ばれてきた東京都美術館。その入館者の多くは、ただ自らの「生きることの喜び」のために作品を作り続けてきた出品者と、それを見に来てくれた来場者、そして両者の人間的信頼関係だっただろうと思います。企画展や特別展の入場者は年によって大きく変動していますが、公募団体展の入館者は毎年ほぼ一定に推移しているのです。このような人々のつながりと、一人一人の美的体験の共有と継承こそが、政治動向や経済活動とは異質の役割であり、意義であったのではないでしょうか。時代の流行とは一線を画した、まさしく「聖地」と呼ぶにふさわしい東京都美術館。その100年の歴史の底流を流れてきた、関係の方々の美術にかける無償の努力と愛情に、もう一度思いを馳せたいと思います。

参考文献:『東京都美術館ものがたり』鹿島出版会 2012年
写真は、同書p. 65より転載

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