東京都美術館100年のトピックを、各時代の出来事やニュース、話題、人物などに焦点を当てながら詳しく紹介していきます。
1926(大正15)年から現在(2026年)までの歴史を振り返って、美術館に関わってきた人々に思いを馳せるシリーズです。
❹ 佐藤慶太郎が憧れたアンドリュー・カーネギー
アメリカの実業家アンドリュー・カーネギー(1835–1919)は、「鉄鋼王」と呼ばれた、南北戦争後のアメリカン・ドリームを体現する立志伝中の人物です。彼は、スコットランドの貧しい織物職人の息子として生まれています。1848年、一家でアメリカに移住し、ピッツバーグ郊外に居を定めました。カーネギーは、まだ12歳のころから週給1ドル20セント(現在の日本円で約7,000円に相当)で木綿工場の糸巻きの仕事をしながら家計を助けていました。彼は、南北戦争以前から製鉄事業に投資を続け、1865年に独立し、以降は鉄橋の建設や製鉄など、鉄鋼事業に専念していきました。カーネギーは、時代の波に乗って急速に会社の事業を拡大し、製鉄の技術革新を成し遂げて成長した後、1889年にカーネギー製鋼会社を設立し、世界から「鉄鋼王」と称されるまでになりました。
1901年、カーネギーは66歳で鉄道事業経営から引退しました。それからは、莫大な資産を費やして、図書館、大学、音楽ホール、博物館などを設置し、教育、科学、芸術文化への寄付などの社会事業を押し進めていきました。こうした社会奉仕の事業は、カーネギーにとって決して引退後の道楽などではなく、むしろ若いころから目指していた、真摯で骨の折れる仕事でした。カーネギーは、晩年に書いた自伝の中で、こう言っています。
「私は、人生の幸福の、私として正当に受くべきもの以上の分け前をいただいてきた。であるから、私は神になにものをも祈り求めなかった。私たちは宇宙の法則のもとにあるのであるから、黙々として頭をたれ、うちなる良心の裁きにしたがうべきで、なにものをも求めず、なにものをも恐れず、ただ自分の務めを一途につとめ、現在も、また死後にもなんの酬いも求むべきではない。
受けるよりも与えることのほうが、もっと幸福なのである。」(『カーネギー自伝』中公文庫 2002年 p. 329)
東京府美術館に莫大な寄付をした佐藤慶太郎は、「日本のカーネギー」を目指すと言っていました。彼も、財産は社会や次の世代の育成のために使いたいと、若いころから心に決めていました。
参考文献:『カーネギー自伝(新版)』中公文庫 2002年
写真は、同書(2021年新装版)表紙