東京都美術館100年のトピックを、各時代の出来事やニュース、話題、人物などに焦点を当てながら詳しく紹介していきます。
1926(大正15)年から現在(2026年)までの歴史を振り返って、美術館に関わってきた人々に思いを馳せるシリーズです。
❺ 悲劇の建築家、岡田信一郎
1932(昭和7)年4月、建築家、岡田信一郎が気管支拡張症を悪化させて、亡くなりました。享年50の若さでした。多くの人に親しまれた東京都美術館旧館の建物を設計したのは、当時まだ43歳の岡田だったのです。
岡田信一郎(1883–1932)は、「様式建築(特定の時代や地域、文化に共通する特徴的なデザインルール(建築様式)に基づいて建てられた建築物のこと )の鬼才」と言われていました。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現東京大学)に進んだエリートで、大学院では西欧建築史上の古典主義を研究した学究肌の資質を持っていました。帝大卒業後は、東京美術学校(現東京藝術大学)、そして早稲田大学建築家で教壇に立ち、また建築評論なども盛んに書いていた理論家でもありました。外国語に優れ、たくさんの洋書籍や洋雑誌を取り寄せては、よく目を通していました。岡田は、和洋の建築様式に深い知識を持ち、学識と教養の豊かな若手建築家だったのです。しかし、岡田は生来病弱だったため、海外留学はできませんでした。ヨーロッパに赴いて直接に西洋建築に触れることもありませんでした。
1919年に、岡田の才能を高く評価していた日本近代建築の父、辰野金吾が世を去りました。辰野の保護や助けがなくなり、36歳の時に花柳界の芸妓で、美人で有名だった田迎静(芸名:萬龍)と結婚した岡田は、世間の批判を多く受けるようになりました。また、このころ建築界の動向が様式建築から構造工学へと変わっていったことから、建築アカデミズムの主流からは次第に外れていきました。しかし、岡田は決して構造計算や最新技術をおろそかにしたわけではなく、和洋の古典主義様式と両立させながら、新しい建築を志向していたのです。教壇に立った東京美術学校と早稲田大学では、今和次郎、今井兼次、吉田五十八など優れた後進を輩出しています。