東京都美術館100年のトピックを、各時代の出来事やニュース、話題、人物などに焦点を当てながら詳しく紹介していきます。
1926(大正15)年から現在(2026年)までの歴史を振り返って、美術館に関わってきた人々に思いを馳せるシリーズです。
❽ 東京府美術館―常設美術館とギャラリーのあいだで
100万円を寄付した佐藤慶太郎の願いは、海外各国の首都にある美術館に恥じない「常設美術館」の建設でした。しかし東京府は、まず第一に美術展示専用の施設(ギャラリー)を切望する美術団体の要望に応える必要がありました。既に官展(文展、帝展)は設立以来20年近くが経過しており、新進気鋭の美術家による活動も活発で、本格的ギャラリーの必要性が切迫していたのです。
写真は、1932(昭和7)年に雑誌『主婦の友』の付録としてつくられた外観写真の絵葉書です。 絵葉書の裏面には解説が付けてあり、「……曾てはバラックの展覧会場に甘んじていた帝展、院展、二科展その他の美術展覧会は、ここに立派な会場を得たわけで、春秋の美術シーズンには、大変な人出であります。」(一部旧字、旧仮名遣いを新字体、現代仮名遣いに変更しました)と説明があります。美術館の評判が高かったことがよく分かります。
その一面、主な用途は現存の美術家、工芸家、書家のためのギャラリーでありながら、様式や機能は古典的な美術館仕様という相矛盾した側面がありました。それゆえ、東京府美術館は作家にとって機能的に「大変不便な物」という批判もありました。1928年5月、雑誌『美術新論』の中で洋画家、斎藤与里は、以下のように率直に書いています。
「……出来上がった美術館は、開館以来展覧会場として使用されて居る。それは結構だが、元々展覧会場としてでなく、美術館として建てられただけに、展覧会場として使用する事になると甚だ不便を来すので、到底現在のまま放擲するわけには行くまいと思う。」(斎藤与里「美術館と展覧会場」『美術新論』美術新論社 1928年5月)。
このように、美術団体優先でスタートした美術館ですが、戦前から新聞社や国、そして東京府主催の企画展も盛んに開催され、寄贈による所蔵作品も次第に増えてきて、第二次大戦後は美術館としての性格が次第に濃くなっていきました。