
写真:鈴木渉
空き缶から文房具、はたまた、冷蔵庫や机、自分の全身まで——。身の回りにある、あらゆるものを「版」に変えて、版画の概念を大胆に広げるような作品をつくっている、若木くるみさん。「つくるよろこび 生きるためのDIY」では、展覧会のトップバッターとして、周囲を観察することから生まれた、楽しい独自の作品世界を見せました。
そんな若木さんは、版画という営みのことを、イメージが反転して出来上がるその工程と同じように、世の中の一般的な価値観をひっくり返すことのできる、ひとつの方法だと考えているようです。かつて大学で版画を学んだものの、それほど深くはのめり込むことができなかったという若木さんが、いまふたたび「刷る」ことに見出している、その楽しさや可能性とは何なのか? 本展をきっかけに、あらためてお話を聞きました。

写真:鈴木渉
——「つくるよろこび 生きるためのDIY」に出品されていた、日用品を版として使った版画作品の数々が印象的でした。若木さんといえば、以前はパフォーマンスの印象も強かったですが、近年は再び学生時代に学んだ版画に取り組まれているそうですね。こうした変化にはどのようなきっかけがあったのでしょうか?
若木:版画を再開するきっかけとして大きかったのは、2020年、コロナ禍でパフォーマンスの仕事がなくなるなか、北アルプスにある「雲ノ平山荘」という山荘のレジデンスプログラムに参加したことです。
この場所は月に一度だけ物資が届くような僻地にあるのですが、「身の回りにあるものを使うしかない」という不自由な環境に置かれたことで、逆に視野が広がりました。木の幹を版にしてみるなど、学校で習ったオーソドックスな技法から離れて実験をするなかで、もっといろんな凹凸から生まれる版画があるという手応えを得ることができたんです。
その経験を経て、翌年に木版画専門のギャラリーで個展の機会があった際、今度は日常のなかにあるものにも目が向くようになりました。日々木版に取り組むなかで、耳かきやまな板など、より当たり前に身の回りにあったものも版にできるのでは、と思ったんです。
——「刷る」という感覚に対して、意識の変化があったんですか?
若木:そうですね。単純に版画をつくることが楽しかった。 正直、パフォーマンスという表現に対して、どこか後ろめたい気持ちも抱えていたんです。パフォーマンスではどうしてもキャラクターを演じないといけない。でも、私はそもそも家でずっと寝ていたいような根暗な性格なんです。その、本当の自分との乖離に苦しむ部分がありました。
だけど版画なら、アイデアを純粋に形にできる。ここに自分の表現のチャンネルを設けられたら、もっとつくることを楽しんでいけそうだという予感がありました。
——そこからは、手当たり次第、版として使う素材を広げていった?
若木:はい、まさに手当たり次第ですね。とくに今回、「DIY」がテーマの展覧会に呼んでいただいたことが大きかったです。 それまでは木材にこだわっていましたが、「DIYなら何でもありだ」と視点が切り替わりました。
基本的に、締め切りに追われないとつくらないタイプなんです。そのなかで、「DIY」というテーマはもっとも自分らしさを発揮できるお題だったかなと思います。今回出品した作品たちは、ほとんどが展覧会まで3ヶ月を切ってから一気につくったものです。

写真:間庭裕基
——今回出展されたなかで、とくに印象深かった「版」はありますか?
若木:「見つけた!」と思ったのは、自分の全身を使った作品です。いままで後頭部を版にしたことはありましたが、正面をどストレートに版にする発想はなくて。ほかにも使えるものがないかと探すなかで、一番身近なところに掘り出し物がありました。これまでのパフォーマンスの文脈も汲めますし、まさに「自分そのもの」の版画ができた感じがありました。
じつはこの作品、「わたくしのわたくしによるわたくしのメタの版画」というダジャレめいたタイトルを先に思いつき、どうしてもそれを使いたくてつくったものなんです。だけど、実際に転写してみたら、思った以上にバッチリ刷ることができて。
私の顔って、平べったい部類なんですが、その凹凸の少ない顔のおかげで綺麗に刷り上げることができたんですよね。現代の「美」の基準では、一般に平たい顔はよろしくないとされることも多いと思いますが、「この顔だから刷れた」と思えた瞬間、版画を通して初めて自分を最大限に肯定できました。「この顔で良かった、私は版画に愛されている」と。
版画って、刷るとイメージが反転するじゃないですか。それと同時に、自分が抱いていたコンプレックスや価値観まで反転させられた。あらゆる点で「おいしい」作品でしたね。

《わたくしのわたくしによるわたくしのメタの版画》写真:間庭裕基
——その作品タイトルの「メタ」という視点は、若木さんの作品にとって大事なポイントなのかなと思いました。いまのお顔の話もそうですし、日用品を版にすることも含め、既存の価値観を外してものを見る視点が、制作のひとつのテーマになっている気がします。
若木:そうですね。ただ、私が先天的にそういう見方をするわけじゃなくて、「版画家として出せるものは何?」と考えていることが、そういう目を求めるんだと思います。
私、とにかく「アイデア」が好きなんですよね。アイデアって、それまでは何もなかったところに、見方を変えるだけで何かを生み出したり、世界を変えることができたりするわけですよね。材料費もかからず、周りは一切変わっていないのに、自分の着想次第で「世界」が一変する。それが一番コスパが高いというか……ケチな私には「お得」な感じがするんです。
——タイトルから着想することも多いですか?
若木:多いです。どうしようもない作品でも、タイトル次第でレベルを一段上げられることがあるので、すごく頑張っています。 例えば孫の手を「孫の毛」にした作品。孫の手って彫れる面積が少なくて苦戦していたんですが、「手」という漢字が「毛」につながって、このタイトルが降りてきたときは嬉しかったですね。
歯磨き粉の「ホワイト&ホワイト」を使った作品も、パッケージの赤・青・白から、「これ、星条旗……トランプ(大統領)、いけない?」みたいな感じで一気に波が来て。そういうアイデアのゾーンに入るまでが一番苦しくもあり、閃いたときに喜びが大きい瞬間です。

《まごの毛》(左)《White & White》(右下)写真:間庭裕基
——自分のなかで縛りをつくって、その制約のなかでつくることを楽しむという部分があるのかなと感じました。本展の図録では、「思い通りにならないところが版画の面白さだ」といったことも書かれていましたよね。
若木:そうなんですよ。基本的に飽き性だし、同時にマゾヒスティックというか、「怖くなりたい」「ドキドキしたい」って欲求があるみたいで。 昨日も「版画運動会」というイベントを企画したんですね。エアホッケーやハイハイレースで版画をつくったり、走り幅跳びの着地の跡を版画にしたりする企画なんですけど、やったことがないから準備中は心配で仕方なくて。「なんでこんなこと言い出したんだ」と毎回思うんですけど……。

写真:鈴木渉
——それでもやってしまう?
若木:予想がつかないことへの貪欲さがあるんでしょうね。探検家の本を読むのも好きですし、以前はウルトラマラソン(フルマラソンの42.195キロを超える超長距離マラソン)にも熱中していました。
——そうなんですよね。じつは若木さんは、台湾の333キロを走るレースで優勝されたり(2013年)、ギリシャの「スパルタスロン」(246キロ)でも日本人女子1位、世界女子9位になる(2016年)など、ランナーとして凄まじい実績をお持ちです。
若木:しんどいのが苦じゃないというか、むしろしんどいと「許される」気がするんです。「まだこの先があるに違いない」と思いたい。 自分をギリギリまで追い込むと、思いもよらない予想外の出来事に出会える確率が高くなります。そのせいで、制作も締切ギリギリまで粘ってしまう癖があるんですけど……その方がミラクルを感じやすいんです。
——若木さんのそのスタンスと、版画というメディアは相性が良さそうですね。時間をかけて蓄積していくタイプの制作だとできないことが、一気に刷れる版画ならできる。
若木:そうそう。とくに私がやっている「面白版画」は、勢いでごまかせる部分もありますし。何より刷り上がりに驚きがあるのがいいんです。 直接描くのとは違って、版というワンクッションを挟むことで「自分以外」の要素が入ってくる。自分に自信がないので、自分のセンス以外の要素が出てきてくれると、「助かった」とありがたく思うんですね。
だから私、刷るとき版に「お願いします!」って挨拶していて。スポーツの試合で「お手合わせお願いします」と言うような感覚ですね。版という他者に頼っている。
私は、普段から息をするように制作できる「本物」タイプではなくて、できればずっと寝ていたいけど、何か予定や約束があるとそれに向かって周りを散らかし始め、動作のなかで何とかつくっていくタイプなんです。その自分の性質と、版画は相性がいいんですね。

写真:鈴木渉
——大学時代は、そもそもなぜ版画を専攻されたのですか?
若木:じつは不純な動機で、版画専攻の先輩たちが可愛かったからです。
——そうなんですか(笑)
若木:勉強が苦手だから美大に入っただけで、やりたいことがあったわけではなかったんです。版画に進んだあとも、エッチングみたいな他の技法は仕組みが複雑でよくわからなくて、そのなかで私の頭でも理解できたのが、出っ張ったところにインクを乗せればいい木版画でした。手形とか芋版と同じだから、「これなら私にもできる」と思ったんです。
——でも、そこから版画にどっぷりハマったわけでもなかったんですよね?
若木:全然ハマれませんでした。むしろ在学中からパフォーマンスや身体表現の方に逃げていましたね。当時は反抗期もあって「版画なんて面白くない」と思っていました。
私、自分のことを「美術弱者」だと思っていて。とくに若いときは、コンセプトや評論ありきの高尚な現代美術には乗り切れないコンプレックスがあったんです。だから、いま自分がやっている「面白版画」は、当時の自分でも面白がれるようなものでありたいと思ってつくっている部分があります。門外漢の方から、「自分もやってみたくなった」という声を聞くと嬉しいですし、美術の入り口として機能したらいいなと思っています。
——最近、あらためて版画に向き合ってみていかがですか?
若木:集中してやってみて思うのは、やっぱり版画ってすごい体力がいるんですよ。彫るのも刷るのも力仕事で、「労働」と言ってもいいくらい。でも、そこがスポーツ的で楽しいんです。工程がはっきりしていて、身体を動かす分、勢いや荒さが出やすい。ワークショップでお客さんの反応を見ていても、描いた線がそのまま出るわけじゃないから驚きが詰まっていて、みんな熱中してくれる。そういう懐の深さがあるのかなと思います。

作業風景
——ふと思い出したのですが、最近、ある方から子どもがスマホを通して世界を見ているという懸念を聞きました。子どもに限らず、自分の目でしっかり見たり、いろんな手触りを感じたりする機会が減るなかで、版画的な経験の価値は高まっている気もします。
若木:私も、放っておいたらずっとスマホで芸能人のゴシップを見ている人間です。だけど作業中は強制的にスマホから離れられる。私もスマホ依存の治療みたいな感じで作品をつくっているところがあるのかもしれないですね。
ただ、やっぱり自分としては、高尚なアートに対する「野良アート」みたいな気持ちでやってきた部分はあるので、これが流行り始めても嫌だなというのはありますね。私自身、ようやくやりたいことと、良いと思える作品が見つかり始めているところでもあるので。
——作家として充実している感覚があるのでしょうか?
若木:そうですね。以前は何が良い作品なのかいまいち分かっていなかったけど、だんだんと自分のジャッジに自信が持てるようになってきた。いまは制作が楽しいです。
——その版画の楽しさは、今回の展覧会でも存分に感じられました。参加されてみていかがでしたか?
若木:会期中にいろんな感想を見聞きしすぎて、もはや自分の考えなのかネットの声なのか分からなくなっていますが、とにかくトップバッターの役目は果たせたのかなと。自分の持ち味の悪ふざけは、十分に見せられたのかなと思います。あと、冷蔵庫を版にした作品《タワマン》や、《さいごの版さん》というテーブル面を立ち上げる作品は、美術館の広い空間やスタッフの方のご協力がないと実現できないものだったので、願いが果たせて嬉しかったです。

左《さいごの版さん》 右《タワマン》 写真:鈴木渉
——今後、何か彫ってみたいものはありますか?
若木:ここ最近はずっと実験的な版画が続いていたので、そろそろ伝統的な、根を詰めてつくり込むような木版画に戻らねば、という思いはありますね。
——お話を聞いていると、若木さんのなかでは「版画をすること」と「生きること」が密接に絡み合っているように感じます。
若木:絵を描くという行為は、「描くぞ」と意識して行うものですが、版画は生活の至るところに潜んでいるものだと思っています。 例えば、魚を焼いた後のアルミホイルも、魚の跡が写し取られていて版画になっているし、足跡だってそう。意図しないところで自然に生まれているのが版画。だから、肩に力を入れて美術をやろうと構えるのではなく、生活のなかに当たり前にあるものとして見つけていきたい。「こんなところにも版画」と発見していくことができたら、生きることそのものが楽しくなるだろうなと思っています。
——版画は、生きることを楽しくするための術でもある?
若木:もっと切実なものですね。私、さっき話した、自分の身体を版にする作品をこれから毎年続けていこうと思っていて。 そうすると、シワも増えるし、体型も変わるけど、現在の姿と変われば変わるほど、作品としては豊かで面白いものになるじゃないですか。
毎年やると決めたことで、年を取ることが怖くなくなったというか、むしろ楽しみになりました。「早く私のシワを見たい」「早く私の衰える様を刷りたい」と。自虐ではなく、版画として絶対に面白くなるから見たいんです。 その目標ができたことで、「長生きしたい」という強い意志が生まれました。長生きさえすれば、作品はどんどん面白くなるわけですから、もう迷うことはない。生き続けることが楽しみで仕方なくなりました。
——プリントするために長生きする。
若木:そうそう。死んだ後も、誰かに私の遺体を刷ってほしいくらいです。そうすれば死後の評価も確立できますし(笑)。 そういったよこしまな欲望も含めて、版画は「どんどんやれ」と言ってくれている気がして、すごく頼もしい存在ですね。
生活には直接必要ないと言われがちな芸術ですが、その意義があるとすれば、やっぱり既存の価値観に疑問を呈したり、揺さぶりをかけたりできることだと思う。それにチャレンジできるジャンルだし、そこが大好きなところなので、いろんな当たり前を版画で裏返していけたらと思います。

《さいごの版さん》 写真:間庭裕基
若木くるみ
1985年北海道生まれ。京都市立芸術大学で木版画を専攻。卒業後、版画という技法を拡張し、自らの身体を版として用いるインスタレーションやパフォーマンス作品など、多様な表現を展開する。2009年には岡本太郎現代芸術賞を史上最年少で受賞。近年は、版画ならではの「摺る」という行為に立ち返り、空き缶や歯磨き粉のチューブなど、日用品を版として再利用する作品を手がけている。本展では、主に作家自身の自宅にある物を使い、身近な素材から新しいイメージを生み出す実験的な版画作品を発表する。
聞き手・文 杉原環樹