レポート
Report
瀬尾夏美インタビュー:
災禍や喪失の場から生まれるもの

写真:鈴木渉
震災後のまちで出合った、生きていくための営み
——本展での瀬尾さんの展示は、東日本大震災後、岩手県陸前高田市に移り住んだ日々に生まれた絵や言葉で構成されています。どのような形で出展の相談があったのでしょう。
瀬尾:最初に企画者の藤岡勇人さん(東京都美術館学芸員)が話してくれたのは、「つくること」について考えるとき、大きな災禍や喪失を経験した場からも、何かを作り、立ち上げ直す営みは生まれるのではということでした。私は東日本大震災をきっかけに、東北で自宅や家族など大切なものを失った人たちと関わってきました。そこには確かに、かれらが以降の人生を生きていくうえで、コミュニティを再建し、新たなコミュニケーション手段を生み出す、ある種の創造と言えるものがあったと思います。
例えば、被災後に更地になってしまった土地に花々を植えて皆が立ち寄れる場にしたり、あるいはもっと身近な「ことば」についてもそうです。本当に厳しい経験を何かで表さねばならないとき、確かにその言葉しかないなと思うことがありました。私はそうした体験を通じて現場の方々への尊敬が深まり、そこで起きていることを何らかの形できちんと残したいと動いてきました。既存の記録の方法では難しいとも感じてきましたが、藤岡さんは「瀬尾さんはその方法自体を探り、作ってきたのでは」とも言ってくれたのですね。そこで今回はその表現自体と方法論のようなもの、両方を見てもらえたらと考えました。
——お話にあった被災地域での創造性について、最初に強く感じた出来事はありますか。
瀬尾:2011年3月末からボランティアで東北を回ったとき、同行した方の知人が石巻にいるというので訪ねました。その家はブロック塀があったおかげで残りましたが、周りの家はほぼなくなり、複数のご家族が出入りして臨時の大家族のようでした。何かできることがあればと訪ねたけれど、逆に「遠くから来てくれたのに冷たい食事じゃかわいそう」と、数日前に再開通したというガスを点けてご飯を作り、お話を聞かせてくれたのです。
驚いたのは、津波で庭にトラックが流れてきて、車内のご遺体を自分たちにできる形で弔ったというお話でした。皆で相談した末に、庭の一角を片付けてお葬いをしたそうです。近くにあった水産加工場から流れてきた様々な干物を並べて焼くことで、お葬いの儀式にしたという話でした。
本来とても耐えられないような体験のなかで、亡くなった方々と一緒に前へ進むような行いだったのかもしれず、それを誰かと話すことで乗り越える面もあったのではと想像します。でも、そうして多くが失われた状況でも、葬い方を自分たちで生み出してしまうのは本当にすごいことだと強く感じました。
東京では被災地について「壊滅的」などの言葉が飛び交い、まるで全てが失われたように報道されたけれど、現地の皆さんは懸命に生きようとしている。だから「被災地のために何ができるか」と言う前に、まずここに来て、この人たちがやろうとしていることを知った方がいいと思ったのです。それが以降の私の活動の原点にもなり、2012年から陸前高田市に引っ越して約3年間過ごしました。
立場を超えて何かをつなぐために
——震災当時、瀬尾さんは大学院への進学時期だったそうですね。本展では、3月11日の夜に描いたというドローイングも展示されています。それが「昨日と同じような線になったのが腑に落ちなかった」とのご自身の言葉からは、東北行きを決めるまでの思いが窺えます。陸前高田での暮らしとご自身の活動は、どのようなものだったのでしょう。
瀬尾:それまで私が美術でやろうとしていたのは、ある意味すごく閉じたものでした。家族や近しい人との思い出の場の再訪など、これまでの出来事を歩き直すなどして、その過程でドローイングや絵画も制作していたのです。ただ、思い返すと、自分が本当に向き合いたいものや、何のために描くのかがよくわからなくなっていました。
一方で、陸前高田への引越しを決めた際は、大きな災害のあった地域と、自分のいる所は別だと思っている人たちをつなぐ媒介のようなものになれたらとの気持ちがありました。同行した映像作家の小森はるかさんとも、自分たちが見た現状を外に報告することが必要かもねと話し、確か移動中のマンガ喫茶かどこかでブログを立ち上げました。私の場合、自分が受け取ったものや感じたことがきちんと絵画になるまで、結構時間がかかります。だから当時は、より早いメディアを獲得したいと思ったのです。現地では写真館などで働きながら、様々な人に話を伺いました。同時にTwitterで言葉を綴ることも続けました。
それらがだんだん町の人の目にもとまり、当初はSNSで少し変わったことをしている子、という受け取られ方だったようです。復興の具体的な状況を記すのでもなく、当事者として語るわけでもなく、でも何か大事なことを言おうとしているのかなという感じで。やがて「自分たちはわざわざ言葉にしないけど、そういうの結構わかるよ」と、町の災害FM(臨時ラジオ放送局)にゲストで呼ばれたりするようになりました。
——やがて描かれた一連のカラフルな風景画は、瀬尾さん自身が感じた陸前高田なのだろうと想像します。一方で、これらを描くことにも逡巡はあったそうですね。
瀬尾:記録すると言いながら、私はいわゆる正確な記録はほとんどしていないのですね。たとえば伺ったお話を一字一句、正確には文字化してないし、散歩しながら描いたスケッチも写実的な絵ではありません。まず先にあったのは、ここに居させてもらっているひとりの人間として、現地の方々からどんな話を聞いて、どういうふうに生活して、どんなことに困り、どんな風景に感動したのか、といったことでした。
それは自分の身体性に気づくプロセスでもあったと思います。例えば木枠にキャンバスを張るよりも布に直接描くのが好きだなとか、起きていることに体で反応する感じです。一方で、散歩の途中に見た綺麗な花々が寄せられた場所が、実は多くの人が亡くなった場所だと知るようなこともありました。そうしたことに無神経で誰かを傷つけてはいけないと思いつつ、綺麗な風景に出会うとパッと写真を撮ってしまうこともあって、人間はどこか矛盾しているなということも考えしました。
でも皆さんの話を聞いていると悲しみの中にも喜びがあったり、当事者と非当事者のような関係性でも同じ土地で暮らしていると助け合いがあったり、そうした中で自分の生活者としての感覚が解放されていく感覚はありました。現実の風景に対して、描く楽しさから色を選ぶことや、誰かに聞いた話が絵に影響することもあっていいかなと思えてきて、制作はより自由になったと思います。描くことが誰かの悲しい記憶を呼び起こしてしまわないか心配したこともありました。ただ、地元の方に「ああ、瀬尾ちゃんはこう見たんだね」「それはちょっと嬉しいかも」と話してもらったこともあったのですね。
私は人がすごく好きで、話を聞かせてもらう時間も好きです。他方、風景は直には何も語りませんが、長い時を含む様々なものを抱えていると感じます。陸前高田では復興のための大規模なかさ上げ工事があり、町の風景は大きく変わっていきました。皆が共有してきた環境への思いや、生きていくためだとしてもそこが変わっていく不安など、語りづらい部分もあったと思います。そうしたものにも改めて立ち帰れる何かが、風景にはある気がしています。
変わっていく場所で、記憶をつなぐ
——ドローイングと物語による「二重のまち」は、いまお話のあった大規模なかさ上げ工事が陸前高田で行われ、かつての町が土の下に埋まり、大きく変わっていくなかで生まれた作品ですね。記憶のバトンが世代間で受け渡されるような内容が印象的です。
瀬尾:もともと東北での日々をTwitterで綴る際は、具体的な人や場所はなるべく出さない書き方をしていました。それはプライバシーの考慮と同時に、抽象度を上げた方が多くの人に受け取ってもらえるのではと考えたからです。例えば私が陸前高田で最初に感じたのは、とても大きな「さみしさ」や悲しみでした。でもそれは、遠い大都市で暮らす人にも共鳴するはずだと思ったのです。死者との関係や記憶、それらをどんな気持ちで大事にしているのかといったこともそうですね。
今は、それは詩の仕事なのかなとも思いますが、当時はともかくTwitterで共有できそうな言葉を探りながら書いていました。すると自然に、ちいさな物語のようなものになってくるのですね。これを発表しようと決めたのは、交流のある方々が背中を押してくれたことも大きかったです。「宮城民話の会」の小野和子さんは「この災害からも必ず物語が生まれるし、それを育てていくのが私たちのような聞き手の仕事だと思う。あなたはちゃんと聞けていると思うから、やってみなさい」と言ってくれました。
——語りというのは、話す人だけでなく聞く人もいて成立すると考えれば、共に何かを「つくる」ことだと言えるかもしれません。
瀬尾:本当は誰かに伝えたかったことを語れたとき、それを相手がきちんと聞いてくれたと感じるとき、両者の間にある種の親密さが共有される感覚があります。それは互いの存在を認め合うことでもあり、だから私たちが大事なものを失う経験をしたとき、それでも何かを語れた・受け止められたと思える瞬間は必要かもしれません。
そして、これを残し・伝えていくための方法も様々でしょう。今の私は、絵でしかできないときは描けばいいし、物語にしかできないことはそうすればいいかなと思っています。本展では宮城県丸森町の方たちと取り組んだ人形劇も紹介していて、これは2019年にあった台風被害を伝えていくことを考えるなかで生まれました。
境界や立場をこえて語り合うために
——「二重のまち」は、小森さんとの映像作品『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)や同名の書籍にも発展しています。そうした広がりはどう感じていますか。
瀬尾:2014年、せんだいメディアテークでの展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」で、私と小森さんは映像作品《波のした、土のうえ》を発表しました。これは陸前高田の方々に聞いたお話をご本人たちに改めて朗読し、そこに小森さんの撮影した風景が重なるものです。あわせて私が描いた絵やスケッチも展示しました。
これを見てくれた陸前高田の方が「高田でもやってよ」と言ってくれて、町の喫茶店で上映会が実現しました。すると今後は「これは盛岡でもやるべきだ」となって。盛岡には沿岸部から避難した方が大勢いて、その人たちに高田の人の気持ちを伝えてほしいとの話だったのですね。そうして自分たちのしてきたことが、各地を巡っていきました。
また、阪神・淡路大震災を経験した神戸の方が「二重のまち」を見て「これ、俺の話やん」と話すのを聞いて、誰かの物語が別の人々にとっても「自分のもの」になるのだと感じました。民話がそうだと思うのですが、マスメディアとは違う形で人から人へつながっていくことには意味があるし、私が目指してきたことにもつながると思ったのです。
そうして、東北から始まり、次はここへ行ってみたらと勧められると、そこを訪ねてまたお話を聞かせてもらい……ということが続いています。広島では、まちの記憶の継承に関わる若者たちに出会いました。かれらは「小さなころから原爆について教わるけれど、一番親しい祖父母には聞けずにいる」「実体験のない自分たちが記憶の継承を担ってよいのか」という悩みも話してくれて。陸前高田で起きたことと、経験としては全く違うけれど、構造はどこか似ているとも感じました。また「自分でいいのか」という悩みは私も通ってきた道で、そうした人を力付けられる何かがあればという気持ちが『二重のまち』の映画版につながった面もあります。
——これまで作ってきたものに導かれて次の場所へ行く、そんな感覚もあるでしょうか。
そうですね。先日はマーシャル諸島で地元の若い人たちと映画『二重のまち』を一緒に見ることができました。ここはかつてビキニ環礁での核実験で多くの人が被曝や移住の苦難に遭った地域です。そのことを可視化したくない気持ちと同時に、今後どう関わっていくべきかという両方の悩みがあるようで、やはり東北と似た部分があると感じました。また、地球温暖化の影響で島が水没の危機にあり、陸地のかさ上げも議論されています。ここでは「二重のまち」の話が、過去と未来、両方の話にも見えるように感じました。
釜山での上映会では、現地の人たちから、朝鮮戦争の記憶は語るだけでも大変すぎるという悩みを伺いました。それでも、もう一度向き合いたいという方もいて。日本と韓国とは歴史的な関係性や立場の違いもありますが、そうした場合でも同じ人間としての問いをめぐってゆっくり話せることには価値があるし、大切なのではと思っています。
——最後に、この展覧会に参加してみての感想を教えていただけますか。
瀬尾:今回は広く人間が「つくる」ことをめぐる企画で、参加アーティストも、それぞれが生きるうえでの実践として何かを作っている方が多いと感じました。作る行為と、自分の生活やそこで大切に思っていることの間を、しっかりと行き来できている人と言えばいいでしょうか。だからなのか、観客にも開かれた場になっていると感じました。
会場で来場者への説明などを行うボランティアの皆さん(愛称「つくるん」)が頑張ってくれていたのも印象的です。私に対しても「お客さんにこんなふうに伝えるのはどうでしょう」と聞いてきてくれるなど、かれら自身が問いを見つけて人々とコミュニケーションしようとしていると思いました。私は美術をめぐって何かを伝え合おうとする人が作家以外にもいていいと思うので、それがこうした場でできるのは、とても良いなと感じました。
瀬尾夏美
1988年東京都生まれ。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくっている。2011年、東日本大震災のボランティアを契機に、映像作家の小森はるかとのユニットで制作を開始。2012年から3年間、岩手県陸前高田市で暮らしながら、対話の場づくりや作品制作を行なう。2015年、宮城県仙台市で土地との協働を通した記録活動をするコレクティブ「NOOK(のおく)」を立ちあげる。現在は江東区で「studio04」を運営しながら、 過去の災禍の記録をリサーチし、それらを活用した表現を模索する協働プロジェクト「カロクリサイクル」も手がける。本展では、災禍の記憶を胸に生きる人々の営みを捉えたドローイング、絵画、文章などを展示する。
インタビュー・文 内田伸一
