レポート
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装置をつくる人

《「イロハ」を鑑賞するための手段と装置──またいろは》

《「イロハ」を鑑賞するための手段と装置──またいろは》 2025年 写真:間庭裕基

色は匂へど散りぬるを我が世誰れぞ常ならむ…世の一切無常を謳ういろは歌の原型でもある47文字を大岩に刻んだこの彫刻をぼくに思い出させたのはダンヒル&オブライエンのこの制作《「イロハ」を鑑賞するための手段と装置―またいろは》であった。

最上壽之の石彫《イロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソツネ・・・・・・ン》は上野公園のどこかにあったというぼくのウル憶えの記憶は、東京都美術館の東門がある地上出入口の所に設置されていることを同館の学芸員から正され教えられた。富士の大沢で採れた10トンにもなるという石に強く型押しされたように彫り込まれたイロハ文字を全体にまとった異形をあらためて見た。イギリス人の二人の美術家はこの作品からさまざまな印象やきっかけを得て、上述の制作を実現したのである。ぼくが彼らの作品をあえて「制作」と呼ぶのは、8月6日の特に暑い日に美術館で鑑賞したときから、その制作を終えているにもかかわらず未だ鑑賞の対象としての佇まいを見せておらず、師走に入った今日までぼくの中でこの「装置」が作動し続けているからだ。

《またいろは》(部分)

《またいろは》(部分) 写真:間庭裕基

この日は朝からすでに30℃をとうに越えていた。午前中はドローイングの授業を行い、午後は課外授業で学生たちと上野の東京都美術館で或る展覧会を鑑賞することになっている。キャンパスの中にあるバス停からバスに乗って上野公園下で降り、美術館まで歩く。開催中の企画展は「つくるよろこび 生きるためのDIY」、2フロアーをつかって5組6人のアーティストと2組の建築家たちによるグループショーだ。館内ロビーに集合して、総勢29人で階下の会場に降りて行く。“各自作品鑑賞を行うこと、わからないことはとりあえず聞いてくれ、ぼくも人がつくったものは基本わからないことだらけで答えられないかもしれないが、そのときは一緒に考えよう。見終わったらそこで終わり、あとは自由解散、では鑑賞を始めよう”と告げて午後の授業が始まった。

細長いステージ状の台座はダンヒル&オブライエンのロンドンのスタジオと同サイズだという。その上に設営されている長大なパンタグラフの二点に大小の塊がある。30分毎に二つの塊は違う速度で回転し形を変えて見せる。手前のモニターでは動画や言葉が流れている。パンタグラフの奥壁には、制作のための画像写真やメモが貼り込まれ掲示されている。端の仕切りの空間には内側にぐるり渡された棚の上に同程度の粘度による造形物が3Dプリントで出力されて陳列されている。彼らが見た最上壽之の作品の記録や印象を書き留めロンドンに持ち帰り、知人、友人たちに二人が見たモノがどのような外観と印象であったのかを伝え、それをもとに粘土で造形してもらう。再び来日し同じことを東京で行う。100人以上が参加し造形した形を合成し3Dに再生加工したものをパンタグラフで原型に近いサイズに拡大する、その一連のプロセスが今ぼくの目の前に展開されている。

《またいろは》の一部として展示された「かたちの図書館」

《またいろは》の一部として展示された「かたちの図書館」 写真:間庭裕基

その大きさに圧倒されながら移動して別な場所に展示されている三つの白い箱の前に行く。箱の全面に開けられた二つの穴から両手を入れてみる。ぼくはなにかに触っている。こわごわ動かす指先に凹凸が触れてくる。感触を頼りに撫で始めると最初の形を忘れてしまう。触れる指先の角度の少しの違いで同じ形を辿れない。探すようにまさぐる指は二度と最初の形に触れることができない。自分の指が触るものを傍らの紙に写し取るなんてそんなことは可能だろうか。紙にはその起伏をなぞろうにも山の稜線のようなジグザグを描くだけだ。触れているモノと描かれるモノはなんと遠い距離にあるのだろう!そしてぼくはちょうど自分が描きかけの風景画を思い出した。広い道路の向こうに見える山並みと空。前方から水平に広がる道路、そのはるか向こうの山影、方位をもたぬ空。どれも異なる形勢と接続を“絵画という無理強い”で描くことなんて一体全体可能なのか…?風景画のお約束のような縮尺法に対して真実向き合えるサイズは実は等倍ではないか。それでも路面のほんの一部か山の中に分け入って踏みしめている足下の山道か両手の幅ほどの灌木の茂みくらいだろう。空にいたってはもうお手上げだ。

《触れて鑑賞する箱》

《触れて鑑賞する箱》 写真:間庭裕基

彫刻と絵を分かつものは何だろう?一体何が違うと言うのだろう。次元や空間の違いはこの問の答えにならないのではないか。たとえば、触れるものは描かない、描けることは触れない…対立ではなくチグハグでも交換することで不連続と混成を地続きに生きることは可能ではないだろうか。あるいは、画家と彫刻家が描けないこと、造れないことをどうにかシェアできないだろうか?…”神秘”をよけて、「暗黒」と隣り合わせて…。
やばい、自問と自答の地滑りにはまってしまった…!
パンタグラフの所に戻ろう。

一つの事物が時空や環境を換えて、それに伴う思考や印象も自身から他者を経由していくなかでズレを生じ、その空隙に異種異属が差し込まれ、相反するもの同士の接続を促し、必然的に素材や質量を的確に選択し、設えが図られ起伏をつくり物理的にも心的にも反映され夢のような変貌を遂げてゆくのだ。事物が生成されゆくまさにその過程を見せてくれていた。
パンタグラフの先端がなぞり拡大している大きな塊はまだ一部を残している。最終形態には辿り着けないかもしれない。だけどぼくは、完成した“成れの涯”つまり「作品」を見せてくれるよりも「途中の造物」として動態をいつまでも見続けていたい。ぼくたちの「イメージ」はもしかするとこのような佇まいなのではなかろうか。深刻で、かまびすしく、静謐で、反復し、緩慢に、横溢し、理を正し、迂回し、待たされ、唐突であり、そしてなんと愉快にこの装置は稼働していることだろう。

ぼくは二人のイギリス人アーティストがこの装置をつくるまでを勝手に想像する。
彼らは最初に見たものを、その面影を棲家へ持ち運ぶ。その移動中、二度三度繰り返し思い出す。それがどんな形をしていたか、何に似ていたか、大きさは、色は、重さは…メモを取る、何事かを書き(描き)留める。そのときすでに見たものが変化していることも確認済みだ。同時にさらなる可変の可能性を心得てかの地に到着する。そこで椅子に座るのか、いや、とても疲れたのだ。部屋の明かりを落としてベッドにもぐりこむ。明け方、夢の覚め際、はるばる運んできたものは懐かしいようで見知らぬ場所で思いもよらぬ事物や知己の者たちに囲まれて在るのだ。純粋な時間はそのものを見せ、それに手をのばし触れ、またそこから離れてみる。そのものがどうなるかはまったく未知であるのにそれを苦も無く受け入れて平気である。どうしたいのか二人はまったく違う理解の仕方でそれをとてもよくわかっている。

《またいろは》の一部として展示された映像作品「とある彫刻について」

《またいろは》の一部として展示された映像作品「とある彫刻について」 写真:間庭裕基

最後に、ダンヒル&オブライエンはテキストでこう記している。

At four in the morning, when we are at our most vulnerable and least able to act the obvious answer or solution stares back at us inducing a sense of frustration and regret for past mistakes.
午前四時。それはもっとも無防備で、もっとも身動きのとれない時間帯。明白な答えや解決策がこちらを「じっと」見つめ返し、過去の誤りに対する苛立ちや後悔を呼び起こす。

或る夜更け、静寂と明察の隙間からこちらをじっと見つめてくる視線に気づく。彼らがかつてやり終えた、あるいはしつつある事からのまなざしが彼らの誤りと悔恨を照らしている。自分たちのしでかしたモノやコトからの逆襲だ。
輾転反側して朝を迎える。最早彼らはそれを見過ごすことができない。立ち返ろう、再考しよう。さらなる工夫が必要だ。二人が、実際にモノに触れていないこの時刻の思索こそがアーティストとしての経験の深淵と豊穣を証明している。朝を迎えた二人は早速に実際のモノに触れ、組み立て、またバラシ、議論を交わし、他の素材やサイズに交換変換を繰り返す。その途中途中に夢のような空想も去来する。そしてアーティストの手元と現れつつあるオブジェはこれから進むべく道行のまた少し先まで照らされるのだ。その力と作用はいかなる原理によるものなのだろうか。昨日まではなかった道が開かれつつある。昼と夜、過去と現在、此処と其処、自己と他者、可視と不可視の限定を解除して往き来する、そのための装置を二人はつくり、言葉通りD.I.Y.それを生きている。

あ!ぼくはまだ館内にいる学生たちを置き去りにして出てきてしまった。
西陽が容赦ない。自由解散だ。

文 O JUN

O JUN

1956
東京都生まれ
1980
東京芸術大学美術学部油画科卒業
1982
東京芸術大学大学院美術研究科油画専攻修士修了
1984-85
スペイン(バルセロナ)滞在
1990-94
ドイツ(デュセルドルフ)滞在
2007
文化庁芸術家在外派遣研修員としてアルゼンチン(ブエノスアイレス)滞在

ダンヒル&オブライエン
Dunhill and O’Brien

ダンヒル&オブライエン

写真:鈴木渉

ロンドンを拠点とするマーク・ダンヒルとタミコ・オブライエンは、1998年からアーティスト・デュオとして共同制作を行う。二人は、個々の好みや従来の彫刻制作に伴う複雑な工程にとらわれることなく、協働の難しさと可能性を創造の糧とし、思いがけない発見をもたらしながら表現活動を展開する。独自の装置を作ったり、パフォーマンスや他者との共同作業を取り入れたりしながら作品を生み出している。本展では、彫刻とDIYの垣根を超え、複数のセクションで構成されるインスタレーションを制作する。