2. 旧館時代 ―近現代美術史の合わせ鏡
◎群雄たちの同舟
東京府美術館(以下、府美術館)は、官展や美術団体、新聞社などによる展覧会の会場となりました。そのため美術界と社会の情勢が色濃く反映されることになりました。展覧会の軌跡をたどると、日本の近現代美術の歴史が合わせ鏡のように映し出されます。
府美術館が生まれた1926(大正15)年ごろ、美術界は政府による官展と在野の団体がしのぎを削っていました。府美術館のこけら落としとなった「聖徳太子奉賛美術展覧会」では、官展と在野の各会から1000点あまりが出品。「群雄割拠状態にある美術界が久しぶりに呉越同舟して予想以上の成果を挙げた」と評されました。
このころヨーロッパの前衛美術が日本に波及し、未来派を紹介した東郷青児、野獣派に感化された佐伯祐三らの最先端の作品が、府美術館で発表されてゆきます。
東京府美術館彫刻室の展示風景
◎世界の美術と日本の伝統文化の紹介
世界の名品や現代美術の紹介も、府美術館の役割となりました。1928(昭和3)年の「大原孫三郎氏蒐集泰西美術展覧会」は、ヨーロッパ絵画のほかエジプトやペルシャの美術など、倉敷の大原美術館の基礎となったコレクションを展示しました。1932(昭和3)年の「巴里―東京新興美術展」では、ピカソやエルンスト、タンギーなど前衛絵画116点が出品されています。
また日本の伝統文化の発表の場ともなりました。書家・豊道春海らの尽力で開館の年から書道展を実施。各地の美術館で書が発表されるきっかけとなりました。「国風盆栽展」は1934(昭和9)年からスタート。その芸術性を評価し、美術館での開催を後押ししたのが、彫刻家・朝倉文夫でした。
◎戦争の影響と美術団体展の復活、そして「現代美術」の胎動
1930年代後半、日本が中国大陸へ進出すると、梅原龍三郎などが派遣され、彼の地を描いた作品を発表しました。戦時下には大日本陸軍従軍画家協会が発足し、藤田嗣治らが参加。戦争記録画の展覧会が開催されました。こうした絵画は、第二次世界大戦後(以下、戦後)にGHQが集め、東京都美術館(※)に一時保管されることになります。
戦後、文部省は官展の再開をめざし、1946(昭和21)年には日本美術展覧会(日展)を開催。美術団体も相次いで再建されました。しかし出品していた団体展から離れて独自に活動する作家も現れます。岡本太郎はその一人です。
1960年代には既存の美術表現を打ち破る動きが加速します。「読売アンデパンダン展」では、赤瀬川原平ら「反芸術」を標榜するグループの作品に会場は熱狂のるつぼと化しました。1970(昭和45)年開催の第10回日本国際美術展「人間と物質」も、新しい美術表現を紹介する伝説的な展覧会となりました。東京都美術館(以下、都美術館)は「殿堂」であったがゆえに、既成概念を打ち破ろうとするエネルギーが炸裂する場となりました。
※東京府美術館:1943(昭和18)年10月の都制施行により、東京府美術館から東京都美術館と名称変更された。
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