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沿革
東京都美術館の沿革 牟田行秀
東京府美術館誕生前史
明治以後、国内外における美術家の目覚ましい活動の進展に伴い、客観的評価の場として、また活動の拠点として恒久的な美術館の設立を望む声が年を追う毎に高まっていた。明治三十二年(一八九九)には、小山正太郎、浅井忠らによって創立された明治美術会より、政府に対して「美術の保護奨励に関する意見書」が提出され、以後美術関係者を中心に様々な美術館構想が提案されたが、いずれも現実には至らなかった。
大正十一年(一九二二)に東京府主催で「平和記念東京博覧会」が開催されることとなり、これを機に常設の展示施設を備えた恒久的な美術館の建設を望む動きが本格的となった。当時、文(帝)展、院展、二科展等の展覧会場として使用されていた施設は、明治四十年(一九〇七)に上野公園で開催された「東京勧業博覧会」の際に建設され、その後竹之台陳列館の名称で親しまれていた暫定的なものであり、設備の陳腐化・老朽化に伴って、より質の高い展示空間を求める声が少なくなかった。
平和記念東京博覧会開催の前年、東京府会議員の小池素康から美術館設置の建議案が府議会に提出され、既に博覧会場に設置が決まっていた一時的な美術展示施設を、恒久的な美術館施設として建設するよう求めたが、経費や敷地等の問題を理由に採択には至らず、このため小池府議をはじめ美術関係者等により、「平和記念事業期成実行会大会」の名で、政府や東京府市に対する永久的美術陳列館建設を要求する運動が開始された。
このような美術館を巡る一連の動きは、『時事新報』はじめ当時の新聞各紙上等においても採り上げられ、折しも上京中であった福岡県若松市(現北九州市若松区)の実業家・市議会議長、佐藤慶太郎が目にするところとなった。佐藤は海外諸国にも比肩し得る常設の美術館施設が日本にいまだ存在しないことを憂い、古美術の恒久的な保護と新美術の振興を目的とした美術館の建設資金の一助にと、私財の中から阿部浩東京府知事に宛てて、当時の金額で百万円の寄付を出願した。この申し出を東京府も受理することとなり、佐藤の寄付金を基金として、すでに博覧会場への設置が決定していた一時的な展示施設とは別に、東京美術学校の正木直彦校長ほか十数名を委員に迎えての、恒久的施設としての美術館建設計画が本格的にスタートすることとなった。
当初、美術館の建設用地として、東京美術学校(現東京藝術大学)の敷地の一部が予定されたが、所管の文部省はじめ各方面との調整や資金面での折り合いが付かず、関東大震災の発生などもあって計画は難航した。大正十二年(一九二三)十二月、東京府は建設地を当時まだ帝室御料地であった上野公園内二本杉原に変更し、宮内省に使用許可を求めて申請を行っていたところ、翌大正十三年(一九二四)東宮(後の昭和天皇)御慶事記念として、上野公園一帯の東京市への下賜が決定され、美術館用地についても無償貸与が受けられることとなった。
建設地が確定したことで計画は急速に進展し、同年四月に宇佐美勝夫東京府知事による美術館設計案内見会を上野精養軒において開催。設計者となった岡田信一郎(建築家・早稲田大学教授)による原案が披露されるとともに、新たに特別調査委員二十二名を選任しての、より具体的な仕様概要の策定と、工事に向けての実作業が開始された。
大正十一年(一九二二)に東京府主催で「平和記念東京博覧会」が開催されることとなり、これを機に常設の展示施設を備えた恒久的な美術館の建設を望む動きが本格的となった。当時、文(帝)展、院展、二科展等の展覧会場として使用されていた施設は、明治四十年(一九〇七)に上野公園で開催された「東京勧業博覧会」の際に建設され、その後竹之台陳列館の名称で親しまれていた暫定的なものであり、設備の陳腐化・老朽化に伴って、より質の高い展示空間を求める声が少なくなかった。
平和記念東京博覧会開催の前年、東京府会議員の小池素康から美術館設置の建議案が府議会に提出され、既に博覧会場に設置が決まっていた一時的な美術展示施設を、恒久的な美術館施設として建設するよう求めたが、経費や敷地等の問題を理由に採択には至らず、このため小池府議をはじめ美術関係者等により、「平和記念事業期成実行会大会」の名で、政府や東京府市に対する永久的美術陳列館建設を要求する運動が開始された。
このような美術館を巡る一連の動きは、『時事新報』はじめ当時の新聞各紙上等においても採り上げられ、折しも上京中であった福岡県若松市(現北九州市若松区)の実業家・市議会議長、佐藤慶太郎が目にするところとなった。佐藤は海外諸国にも比肩し得る常設の美術館施設が日本にいまだ存在しないことを憂い、古美術の恒久的な保護と新美術の振興を目的とした美術館の建設資金の一助にと、私財の中から阿部浩東京府知事に宛てて、当時の金額で百万円の寄付を出願した。この申し出を東京府も受理することとなり、佐藤の寄付金を基金として、すでに博覧会場への設置が決定していた一時的な展示施設とは別に、東京美術学校の正木直彦校長ほか十数名を委員に迎えての、恒久的施設としての美術館建設計画が本格的にスタートすることとなった。
当初、美術館の建設用地として、東京美術学校(現東京藝術大学)の敷地の一部が予定されたが、所管の文部省はじめ各方面との調整や資金面での折り合いが付かず、関東大震災の発生などもあって計画は難航した。大正十二年(一九二三)十二月、東京府は建設地を当時まだ帝室御料地であった上野公園内二本杉原に変更し、宮内省に使用許可を求めて申請を行っていたところ、翌大正十三年(一九二四)東宮(後の昭和天皇)御慶事記念として、上野公園一帯の東京市への下賜が決定され、美術館用地についても無償貸与が受けられることとなった。
建設地が確定したことで計画は急速に進展し、同年四月に宇佐美勝夫東京府知事による美術館設計案内見会を上野精養軒において開催。設計者となった岡田信一郎(建築家・早稲田大学教授)による原案が披露されるとともに、新たに特別調査委員二十二名を選任しての、より具体的な仕様概要の策定と、工事に向けての実作業が開始された。
東京府美術館の建設
大正十三年(一九二四)年九月四日、起工。施工を請け負った株式会社大林組により建設工事が進められ、翌年四月五日には宇佐美勝夫東京府知事、佐藤慶太郎若松市議会議長、正木直彦東京美術学校長、設計者岡田信一郎らが列席のうえ厳かに定礎式を挙行、着工から一年六ヶ月を経た大正十五年(一九二六)三月十五日、待望の恒久的展示施設としての東京府美術館が落成した。当時の金額で一、〇九三、〇〇〇円あまりの総工費を費やした、本格的な建築物であった。
鉄筋コンクリート構造による地上地階四層(地中階、地階、主階、中二階)に渡る建物は、正面及び側背面の中央にギリシア・ローマの古典建築様の柱頭装飾付き列柱を配し、重厚で荘厳な雰囲気を醸し出す一方で、その他の部分は素朴質実な効果を狙い、スクラッチを施した素焼きのレンガ壁により構成された。館内には絵画陳列室、彫塑室、工芸陳列室のほか、便殿(貴賓室)や会議室、食堂等も整備され、中央の彫刻室を各展示室が回廊状に取り囲むように配されていた。館内の家具デザイン及び配置は、インテリア・デザイナーの先駆的立場にあった梶田恵に委嘱された。
大正十五年(一九二六)年五月一日、総理大臣若槻禮次郎ほかを迎えて開館式が挙行され、平塚広義東京府知事を初代館長とする東京府美術館の運営が開始されたが、それは現代美術の振興を目的とした展覧会場に特化された空間であり、新美術の振興とともに古美術の恒久的な保護と常設展示を趣旨に掲げた、佐藤慶太郎の意志を完全に実現することはできなかった。以来、主要公募団体展や、新聞社との共催による大型展を開催する、ギャラリーとしての機能を重視した美術館の性格は、開館から八十年あまりが経過した今日に至るまで、基本的に変わることなく引き継がれることとなる。
ともあれ、開館第一回展として同日より開催された「聖徳太子奉賛美術展覧会」は、日本画・洋画・彫刻・工芸併せて九百二十九点を全館に陳列する一大総合美術展となり、華々しい幕開けとともに美術館の歴史がスタートした。
鉄筋コンクリート構造による地上地階四層(地中階、地階、主階、中二階)に渡る建物は、正面及び側背面の中央にギリシア・ローマの古典建築様の柱頭装飾付き列柱を配し、重厚で荘厳な雰囲気を醸し出す一方で、その他の部分は素朴質実な効果を狙い、スクラッチを施した素焼きのレンガ壁により構成された。館内には絵画陳列室、彫塑室、工芸陳列室のほか、便殿(貴賓室)や会議室、食堂等も整備され、中央の彫刻室を各展示室が回廊状に取り囲むように配されていた。館内の家具デザイン及び配置は、インテリア・デザイナーの先駆的立場にあった梶田恵に委嘱された。
大正十五年(一九二六)年五月一日、総理大臣若槻禮次郎ほかを迎えて開館式が挙行され、平塚広義東京府知事を初代館長とする東京府美術館の運営が開始されたが、それは現代美術の振興を目的とした展覧会場に特化された空間であり、新美術の振興とともに古美術の恒久的な保護と常設展示を趣旨に掲げた、佐藤慶太郎の意志を完全に実現することはできなかった。以来、主要公募団体展や、新聞社との共催による大型展を開催する、ギャラリーとしての機能を重視した美術館の性格は、開館から八十年あまりが経過した今日に至るまで、基本的に変わることなく引き継がれることとなる。
ともあれ、開館第一回展として同日より開催された「聖徳太子奉賛美術展覧会」は、日本画・洋画・彫刻・工芸併せて九百二十九点を全館に陳列する一大総合美術展となり、華々しい幕開けとともに美術館の歴史がスタートした。
精力的な展覧会活動と利用団体数の増加
東京府美術館では、昭和三年(一九二八)に初の単独主催展となる「大原孫三郎氏蒐集泰西美術展覧会」を開催、グレコの《受胎告知》やルノワールの《泉による女》など、同コレクションの代表作品を含む総点数百七点に及ぶ展観を行い好評を博した。また、開館十周年を迎えた昭和十年(一九三五)には「十周年記念現代綜合美術展覧会」を企画し、全館を使用して日本画・洋画ほか同時代を代表する作品総計六百三十三展を展示するなど、国内外の新たな創作活動の動向を伝える美術の拠点として、精力的な活動を展開した。
すでに震災からの奇跡的な復興を遂げ、モボ・モガに代表される新時代の到来とともに、一般大衆は知的関心を満足させてくれる新たな刺激を求めていた。美術館という、慌ただしい日常から離れた知的な空間と、そこで開催される美術展覧会の数々は、彼らにとってまさにうってつけの「娯楽」であり、このことを裏付けるかのように、開館後十年間の平均入場者数は、公募展と併せて年間六十万人に迫る勢いであった。
東京府美術館を新たな活動場所とする利用団体は、大正十五年の開館当初には活動場所を竹之台陳列館から当館へと移した帝展(戦後は日展)や二科展はじめ計七団体であったが、年を経る毎に増加の一途をたどり、昭和十年には五十六団体に達した。途中、第二次世界大戦の影響による一時的な衰退はあったが、都制の施行により東京都美術館と改称された昭和十八年(一九四三)を経て、開館三十周年を迎えた戦後の昭和三十年(一九五五)には、利用数は八十団体となり、施設狭小の感が否めなくなった。
美術館では、開館後間もない昭和三年(一九二八)六月より工事に着手し、本館の西側に同仕様構造の増築(第一次増築)を行って建坪五八一坪(一九二一㎡)を得ていた。また、昭和二十八年(一九五三)からは、トップライトで採光をとっていた展示室に、新たに電灯と蛍光灯による照明設備の設置を行うなど施設の拡充に努めてきたが、利用団体の増加と作品の大型化による展示空間の不足は、すでに深刻な問題となっていた。このため、開館三十周年の節目となる昭和三十年(一九五五)、各美術団体の代表ほかに安井誠一郎東京都知事を招じての美術館懇談会を開催し、記念式典や事業について意見を交換するとともに、隣接地への別館建設についても話し合いが行われた。
この別館建設計画は美術館を支援するため、高橋誠一郎日本芸術院長を会長として前年に創立された、東京都美術館後援会をはじめとする内外関係者一同の努力により、所管庁である東京都教育委員会において予算計上される段階にまで具体化され、都議会での審議を待つばかりとなった。しかしながら、折しも昭和三十一年(一九五六)四月に施行された都市公園法によって、上野公園内への新たな施設の造営は実質上不可能となり、美術館屋上に三階部分を増築する方法に急遽変更を余儀なくされた。
増築工事(第二次増築・改修工事)は昭和三十二年(一九五七)五月末に着工され、翌年三月竣工、増築とともに一部館内のリニューアルも行われた。この工事の間も通路や倉庫等を使用して展覧会を開催し、閉館することなく活動が続けられたというエピソードからは、別館建設を断念せざるを得なかった内外関係者の、苦渋の選択が窺える。
すでに震災からの奇跡的な復興を遂げ、モボ・モガに代表される新時代の到来とともに、一般大衆は知的関心を満足させてくれる新たな刺激を求めていた。美術館という、慌ただしい日常から離れた知的な空間と、そこで開催される美術展覧会の数々は、彼らにとってまさにうってつけの「娯楽」であり、このことを裏付けるかのように、開館後十年間の平均入場者数は、公募展と併せて年間六十万人に迫る勢いであった。
東京府美術館を新たな活動場所とする利用団体は、大正十五年の開館当初には活動場所を竹之台陳列館から当館へと移した帝展(戦後は日展)や二科展はじめ計七団体であったが、年を経る毎に増加の一途をたどり、昭和十年には五十六団体に達した。途中、第二次世界大戦の影響による一時的な衰退はあったが、都制の施行により東京都美術館と改称された昭和十八年(一九四三)を経て、開館三十周年を迎えた戦後の昭和三十年(一九五五)には、利用数は八十団体となり、施設狭小の感が否めなくなった。
美術館では、開館後間もない昭和三年(一九二八)六月より工事に着手し、本館の西側に同仕様構造の増築(第一次増築)を行って建坪五八一坪(一九二一㎡)を得ていた。また、昭和二十八年(一九五三)からは、トップライトで採光をとっていた展示室に、新たに電灯と蛍光灯による照明設備の設置を行うなど施設の拡充に努めてきたが、利用団体の増加と作品の大型化による展示空間の不足は、すでに深刻な問題となっていた。このため、開館三十周年の節目となる昭和三十年(一九五五)、各美術団体の代表ほかに安井誠一郎東京都知事を招じての美術館懇談会を開催し、記念式典や事業について意見を交換するとともに、隣接地への別館建設についても話し合いが行われた。
この別館建設計画は美術館を支援するため、高橋誠一郎日本芸術院長を会長として前年に創立された、東京都美術館後援会をはじめとする内外関係者一同の努力により、所管庁である東京都教育委員会において予算計上される段階にまで具体化され、都議会での審議を待つばかりとなった。しかしながら、折しも昭和三十一年(一九五六)四月に施行された都市公園法によって、上野公園内への新たな施設の造営は実質上不可能となり、美術館屋上に三階部分を増築する方法に急遽変更を余儀なくされた。
増築工事(第二次増築・改修工事)は昭和三十二年(一九五七)五月末に着工され、翌年三月竣工、増築とともに一部館内のリニューアルも行われた。この工事の間も通路や倉庫等を使用して展覧会を開催し、閉館することなく活動が続けられたというエピソードからは、別館建設を断念せざるを得なかった内外関係者の、苦渋の選択が窺える。
佐藤記念室の設置と美術界の新たな潮流
戦後の混乱も一段落した昭和二十八年(一九五三)三月十五日、館内の一画約五十坪を改修して、常設の「佐藤記念室」をオープンした。美術館建設の恩人である佐藤慶太郎の徳を顕彰し、当初実現することのできなかった啓蒙普及的な分野の活動を補完すべく、開室記念「印象派絵画複製展」を皮切りに、「初期イタリー絵画複製展」(昭和二十九年)、「明治初期洋画展(日本洋画「あけぼの」展)」(同三十一年)など、日本及び西欧の近現代美術を紹介する展覧会を、年間三本から四本のペースで開催した。
開館三十周年を記念して発行された『開館三十周年記念 東京都美術館概要』(昭和三十年)には、記念室の設置目的を「現代美術の理解の基礎となる絵画、複製画、美術に関する図書、印刷物その他を常時陳列し、実技の研究、美術映画の鑑賞、美術講演会などを開催して、都民の美術に対する教養に資するように計画」されたと記されている。常に変貌を続ける美術界の動きをリアルタイムに扱ってきた当館にとって、記念室は鑑賞者の知識を涵養して同時代美術との乖離を最小限度に止め、制作者と鑑賞者との需給の均衡を保つために、必要不可欠の空間であったと言ってよいだろう。その背景には、戦後一変した「現代美術」のあり方にも一因があった。
敗戦によって、美術家や美術館を取り巻く環境は劇的に変化し、アンフォルメルを始めとする海外の新しい美術の動向が伝えられるにつれ、画壇を中心とする従来の保守的な展覧会のあり方に不満を抱く作家層を中心に、画壇を超えた連合展やアンデパンダン(無鑑査)展を開催する動きが活発化した。戦後間もない昭和二十二年(一九四七)に、「女流画家協会第一回アンデパンダン展」「日本美術会第一回日本アンデパンダン展」「独立美術アンデパンダン展」が立て続けに開催され、二十四年(一九四九)の読売新聞社主催による、「第一回日本アンデパンダン展」へと繋がっていく。後に「読売アンデパンダン展」と改称され、昭和三十九年(一九六四)の第十五回展まで続けられた同展は、自由奔放な雰囲気の中で、「反芸術」を標榜する美術家たちと美術館側との対立を生じさせた。
既成の概念の枠にはあてはまることのできない、新進芸術家たちのアバンギャルド的な創作活動は、それまでも次々と同時代美術館の新たな潮流を紹介してきた美術館にとっても、想定外のものであった。このことは、昭和四十五年(一九七〇)に開催された、「第十回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)」においてより顕著となった。「人間と物質」をテーマに、内外の四十作家によるインスタレーション中心の展示が行われた同展では、完成された作品を規定の場所に規定の方法で展示するという、美術館側が定めたルールにそぐわない展示手法はその一切が認められず、両者の軋轢を生じさせた。
同展に招聘された作家たちは、賛否両論挙げられながらも、現代美術の国際的な潮流の中で、間違いなく時代を象徴する作家たちであった。この点においては、公募団体展や新聞社との共催展を通じて、常に最先端の美術を発信する拠点として機能してきた東京都美術館の活動趣旨とも相容れるものであった。しかしながら、美術館という空間的な制約にとらわれない、斬新かつ多様な表現手法を前にして、保守的な対応を取らざるを得なかった背景には、新たなジャンルとしての先鋭的な「現代美術」と、同時代美術として牽引者たる、正統派の「現代美術」との間で戸惑う美術館の姿とともに、戦前に設計された建物の構造に起因する、物理的な制約が存在したことも事実であった。
開館三十周年を記念して発行された『開館三十周年記念 東京都美術館概要』(昭和三十年)には、記念室の設置目的を「現代美術の理解の基礎となる絵画、複製画、美術に関する図書、印刷物その他を常時陳列し、実技の研究、美術映画の鑑賞、美術講演会などを開催して、都民の美術に対する教養に資するように計画」されたと記されている。常に変貌を続ける美術界の動きをリアルタイムに扱ってきた当館にとって、記念室は鑑賞者の知識を涵養して同時代美術との乖離を最小限度に止め、制作者と鑑賞者との需給の均衡を保つために、必要不可欠の空間であったと言ってよいだろう。その背景には、戦後一変した「現代美術」のあり方にも一因があった。
敗戦によって、美術家や美術館を取り巻く環境は劇的に変化し、アンフォルメルを始めとする海外の新しい美術の動向が伝えられるにつれ、画壇を中心とする従来の保守的な展覧会のあり方に不満を抱く作家層を中心に、画壇を超えた連合展やアンデパンダン(無鑑査)展を開催する動きが活発化した。戦後間もない昭和二十二年(一九四七)に、「女流画家協会第一回アンデパンダン展」「日本美術会第一回日本アンデパンダン展」「独立美術アンデパンダン展」が立て続けに開催され、二十四年(一九四九)の読売新聞社主催による、「第一回日本アンデパンダン展」へと繋がっていく。後に「読売アンデパンダン展」と改称され、昭和三十九年(一九六四)の第十五回展まで続けられた同展は、自由奔放な雰囲気の中で、「反芸術」を標榜する美術家たちと美術館側との対立を生じさせた。
既成の概念の枠にはあてはまることのできない、新進芸術家たちのアバンギャルド的な創作活動は、それまでも次々と同時代美術館の新たな潮流を紹介してきた美術館にとっても、想定外のものであった。このことは、昭和四十五年(一九七〇)に開催された、「第十回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)」においてより顕著となった。「人間と物質」をテーマに、内外の四十作家によるインスタレーション中心の展示が行われた同展では、完成された作品を規定の場所に規定の方法で展示するという、美術館側が定めたルールにそぐわない展示手法はその一切が認められず、両者の軋轢を生じさせた。
同展に招聘された作家たちは、賛否両論挙げられながらも、現代美術の国際的な潮流の中で、間違いなく時代を象徴する作家たちであった。この点においては、公募団体展や新聞社との共催展を通じて、常に最先端の美術を発信する拠点として機能してきた東京都美術館の活動趣旨とも相容れるものであった。しかしながら、美術館という空間的な制約にとらわれない、斬新かつ多様な表現手法を前にして、保守的な対応を取らざるを得なかった背景には、新たなジャンルとしての先鋭的な「現代美術」と、同時代美術として牽引者たる、正統派の「現代美術」との間で戸惑う美術館の姿とともに、戦前に設計された建物の構造に起因する、物理的な制約が存在したことも事実であった。
美術館改築計画と新館の建設
昭和三十二年(一九五七)から翌年にかけて実施された第二次増築・改修工事により、美術館には新たに一五〇〇坪(約五〇〇〇㎡)あまりの空間が生まれていたが、この時点で建物はすでに築後三十数年を経て、老朽化もかなり深刻な状況であった。開館四十周年を迎えた昭和四十年代に入ると、使用公募団体数は百を超え、昭和四十三年(一九六八)以降は平均入館者数も常時百万人に達するようになった。岡田信一郎による最新の設計思想に基づいた建築も、戦後次々と設立されつつあった各地の公立美術館に比しては、機能面においてすでにクラシカルな存在であり、高度経済成長に伴う急激な価値観やライフスタイルの変化と、その中から日夜生み出される作品の数々は、時代に相応しい新たな活動拠点を求めていた。本来常設の展示空間として設計された建築と、ギャラリーとしての機能に特化した活動内容との矛盾を指摘する開館以来の声も、依然として根強かった。
昭和四十年(一九六五)十月、東京工業大学清家研究室による構造及び耐久度の調査が開始され、その結果建物は使用不適格との結論に至ったため、四十二年(六七)東京都美術館運営審議会は、東京都教育委員会に対して「美術館のあり方」を答申、翌年東京都より改築計画が公表され、有光次郎、山崎覚太郎、宮本三郎各氏ほか十三人を委員に迎えての、東京都美術館建設準備委員会が発足した。同委員会による検討の結果、新たに建設される美術館(以下「新館」と略記)は、「現代美術の常設展示場」「現代作家の新作発表の場=公募展示場」「社会教育活動の場」としての機能を備えたものとし、建設地については、数年に及ぶ工事の間も利用団体に活動場所を提供し続けることができるよう、隣接する野球場が充てられることとなった。
昭和四十六年(一九七一)十二月、株式会社前川國男建築設計事務所(現前川建築設計事務所)に新館の設計が委嘱され、四十八年(七三)一月より株式会社大林組施工による現地での作業が開始された。かつて別館の新設を断念せしめた都市公園法はこの時点でも健在であったが、同法をクリアし、周囲の自然景観とも調和させるべく、美術館機能の半分を地下に設けた前川プランは高く評価され、優れた建築物に対して贈られる第十七回BCS(建築業協会)賞(昭和五十一年度)を受賞するに至った。
新館工事の状況や概要については、本誌所収の『東京都美術館建築記』ほかに詳しいので本稿では省略するが、旧美術館解体までの束の間の一時、岡田信一郎設計の旧館と、前川國男設計の新館が並び建つ姿は誠に壮観であり、重厚な階段をひとつひとつ高みへと登り詰めていく構造の旧館と、地下に設けられたメインエントランスに向かって緩やかに階段を下りていく新館導線の対照的な姿は、時代や思想の変遷を象徴しているようで、とても感慨深いものであったと当時を知る人々は回想する。大戦中、国威発揚のための戦争記録画展の会場となり、戦後しばらくその保管場所として封印された展示室をはじめ、半世紀に渡って日本の現代美術史を見守り続けた「美の殿堂」は、新館の完成とともに静かにその役割を終え、残らず解体撤去された。
昭和四十年(一九六五)十月、東京工業大学清家研究室による構造及び耐久度の調査が開始され、その結果建物は使用不適格との結論に至ったため、四十二年(六七)東京都美術館運営審議会は、東京都教育委員会に対して「美術館のあり方」を答申、翌年東京都より改築計画が公表され、有光次郎、山崎覚太郎、宮本三郎各氏ほか十三人を委員に迎えての、東京都美術館建設準備委員会が発足した。同委員会による検討の結果、新たに建設される美術館(以下「新館」と略記)は、「現代美術の常設展示場」「現代作家の新作発表の場=公募展示場」「社会教育活動の場」としての機能を備えたものとし、建設地については、数年に及ぶ工事の間も利用団体に活動場所を提供し続けることができるよう、隣接する野球場が充てられることとなった。
昭和四十六年(一九七一)十二月、株式会社前川國男建築設計事務所(現前川建築設計事務所)に新館の設計が委嘱され、四十八年(七三)一月より株式会社大林組施工による現地での作業が開始された。かつて別館の新設を断念せしめた都市公園法はこの時点でも健在であったが、同法をクリアし、周囲の自然景観とも調和させるべく、美術館機能の半分を地下に設けた前川プランは高く評価され、優れた建築物に対して贈られる第十七回BCS(建築業協会)賞(昭和五十一年度)を受賞するに至った。
新館工事の状況や概要については、本誌所収の『東京都美術館建築記』ほかに詳しいので本稿では省略するが、旧美術館解体までの束の間の一時、岡田信一郎設計の旧館と、前川國男設計の新館が並び建つ姿は誠に壮観であり、重厚な階段をひとつひとつ高みへと登り詰めていく構造の旧館と、地下に設けられたメインエントランスに向かって緩やかに階段を下りていく新館導線の対照的な姿は、時代や思想の変遷を象徴しているようで、とても感慨深いものであったと当時を知る人々は回想する。大戦中、国威発揚のための戦争記録画展の会場となり、戦後しばらくその保管場所として封印された展示室をはじめ、半世紀に渡って日本の現代美術史を見守り続けた「美の殿堂」は、新館の完成とともに静かにその役割を終え、残らず解体撤去された。
新館での新たな活動と東京都現代美術館の開館
着工から二年あまりを経た昭和五十年(一九七五)三月に竣工し、諸準備を経て同年九月一日装いも新たに開館した新館では、旧館時代のギャラリーに特化した事業展開を、学芸員を配した企画展覧会の開催や美術文化事業、美術図書室の運営など自主事業と、公募展示室・アトリエ・講堂の貸館事業とに改め、「美術館」の名に相応しい本来の活動が開始された。様々な制約の中で常設展示こそ実現できなかったが、旧館時代より続けられてきた作品収集にもより力を注ぎ、これを基にした収蔵作品展を精力的に開催した。
本格的な美術館活動を展開するにあたり、東京都美術館が志向した基本方針は「現代美術館」であった。この方針に沿って、昭和五十一年(一九七六)に開催された「戦前の前衛展」に始まる、日本の近・現代美術を再確認する一連のシリーズ展が企画された。展覧会事業はさらに版画・写真・陶芸などジャンル別や、ドイツ・英国・韓国ほか同時代の海外の美術の動向を紹介する企画に加え、「斎藤義重展」(昭和五十九年)、「ナムジュン・パイク展」(同年)に代表される、作家の個人展という型式での、その作家の主要な活躍ジャンルとその時代に焦点をあてた企画など多岐に渡り、首都東京における現代美術の拠点として、独自性をアピールする多彩な活動が展開された。また、企画展示室を有効に活用し、その存在を広く周知するため、報道機関との共催展にも取り組み、館の趣旨に沿ったものを中心に、「ミュンヘン近代美術館展」(昭和五十二年)、「近代日本美術の歩み展」(同五十四年)、「描かれたニューヨーク展」(同五十六年)ほかが開催された。
文化事業についても積極的な取り組みが行われた。新館開館直後より、各種造形講座や公開制作、講演会など、美術館の展示・収集事業と有機的な関連性を持たせた様々なアプローチが精力的に試みられているが、これは本格的な美術館としての再スタートを機に、社会教育機関としての美術館に期待される、美術に関する教育・奨励の情報交流センターとしての役割を十二分に発揮したいという意思表示でもあった。また、昭和五十一年(一九七六)六月にオープンした美術図書室は、専門の司書を配した日本最初の公開制美術館図書室となり、以後全国の美術館に同様の図書室が設置される先駆けとなった。このように、新館の開館以来「現代美術」をテーマに一転して先鋭的な活動を行ってきた東京都美術館であったが、平成七年(一九九五)三月の東京都現代美術館開館とともに、再度大きくその性格を変えることとなった。
昭和五十七年(一九八二)発表の「第一次東京都長期計画」において建設が具体化された「東京都新美術館」は、施設や活動の詳細が決定されていく過程で、東京都美術館の基本方針を継承発展させるかたちでの「現代美術館」として位置付けられることとなった。これに伴い、東京都美術館の収蔵作品及び美術図書資料についても、一部を除いて大半が新美術館に移管されることとなり、当館は展示施設の貸出事業と、報道機関との共催による企画展事業主体の、収蔵作品を持たない美術館として再出発することとなった。
この時期、館運営を巡る環境もめまぐるしく変化した。平成八年(一九九六)四月一日、長年管理運営にあたってきた東京都教育委員会の手を離れ、財団法人東京都教育文化財団(現東京都生涯学習文化財団)がその任にあたることとなった。平成十四年(二〇〇二)四月にはさらに財団法人東京都歴史文化財団が管理運営を引き継ぎ、平成十八年(二〇〇六)年四月の指定管理者制度導入を経て現在に至っている。
本格的な美術館活動を展開するにあたり、東京都美術館が志向した基本方針は「現代美術館」であった。この方針に沿って、昭和五十一年(一九七六)に開催された「戦前の前衛展」に始まる、日本の近・現代美術を再確認する一連のシリーズ展が企画された。展覧会事業はさらに版画・写真・陶芸などジャンル別や、ドイツ・英国・韓国ほか同時代の海外の美術の動向を紹介する企画に加え、「斎藤義重展」(昭和五十九年)、「ナムジュン・パイク展」(同年)に代表される、作家の個人展という型式での、その作家の主要な活躍ジャンルとその時代に焦点をあてた企画など多岐に渡り、首都東京における現代美術の拠点として、独自性をアピールする多彩な活動が展開された。また、企画展示室を有効に活用し、その存在を広く周知するため、報道機関との共催展にも取り組み、館の趣旨に沿ったものを中心に、「ミュンヘン近代美術館展」(昭和五十二年)、「近代日本美術の歩み展」(同五十四年)、「描かれたニューヨーク展」(同五十六年)ほかが開催された。
文化事業についても積極的な取り組みが行われた。新館開館直後より、各種造形講座や公開制作、講演会など、美術館の展示・収集事業と有機的な関連性を持たせた様々なアプローチが精力的に試みられているが、これは本格的な美術館としての再スタートを機に、社会教育機関としての美術館に期待される、美術に関する教育・奨励の情報交流センターとしての役割を十二分に発揮したいという意思表示でもあった。また、昭和五十一年(一九七六)六月にオープンした美術図書室は、専門の司書を配した日本最初の公開制美術館図書室となり、以後全国の美術館に同様の図書室が設置される先駆けとなった。このように、新館の開館以来「現代美術」をテーマに一転して先鋭的な活動を行ってきた東京都美術館であったが、平成七年(一九九五)三月の東京都現代美術館開館とともに、再度大きくその性格を変えることとなった。
昭和五十七年(一九八二)発表の「第一次東京都長期計画」において建設が具体化された「東京都新美術館」は、施設や活動の詳細が決定されていく過程で、東京都美術館の基本方針を継承発展させるかたちでの「現代美術館」として位置付けられることとなった。これに伴い、東京都美術館の収蔵作品及び美術図書資料についても、一部を除いて大半が新美術館に移管されることとなり、当館は展示施設の貸出事業と、報道機関との共催による企画展事業主体の、収蔵作品を持たない美術館として再出発することとなった。
この時期、館運営を巡る環境もめまぐるしく変化した。平成八年(一九九六)四月一日、長年管理運営にあたってきた東京都教育委員会の手を離れ、財団法人東京都教育文化財団(現東京都生涯学習文化財団)がその任にあたることとなった。平成十四年(二〇〇二)四月にはさらに財団法人東京都歴史文化財団が管理運営を引き継ぎ、平成十八年(二〇〇六)年四月の指定管理者制度導入を経て現在に至っている。
現在そして未来へ
かつての先鋭的な「現代美術館」としての性格こそ薄れたが、同時代美術をリアルタイムに紹介するギャラリー機能は依然健在であり、旧館以来の歴史を背景に、日展・二科展ほか主要美術団体展の開催会場として「東京都美術館」の存在は広く社会に認識されてきた。その一翼を担った報道機関との共催展においても、「オルセー美術館展」(平成七年)、「ルーブル美術館展」(同九年)、「テートギャラリー展」(同年)、「大英博物館の至宝展」(同十五年)など海外美術館所蔵作品を中心とした大型展覧会を相次いで開催し、好評を博した。現在に至るまでの間に、公募展示室を利用する団体は二百四十あまりとなり、年間入場者数は三百五十万人(平成九年度実績)にまで膨れ上がった。
春秋の展覧会シーズンを中心に、毎年変わらぬ盛況が館の内外を包んできた東京都美術館であったが、その光景も今またさらに大きく変貌を遂げようとしている。平成十八年(二〇〇六)五月、開館八十周年を祝して、「東京都美術館八十周年記念祭」を館主催事業として実施した。「回顧・感謝・未来」をテーマに掲げたこの記念祭は、八十周年を迎えた美術館の誕生日を祝うという趣旨ではあったが、それと同時に、東京都美術館がこれまで果たしてきた役割と意義を改めて検証し、来るべき時代に対する新たな美術館のあり方を探るという意味合いも込められていた。これは、平成十九年(二〇〇七)一月にオープンする、国立新美術館との機能分化を如何なるかたちで実現し得るかという、館の歴史始まって以来の大変革に対する意識喚起の場でもあった。
国立新美術館の開館により、日展・二科展はじめ三十あまりの公募団体が活動拠点を当館から六本木に移すこととなった。同時に、築後三十年を経過し、老朽化が進行した建物の改修も焦眉の急の課題であり、開館八十周年を迎えた東京都美術館は、あらゆる意味で節目を迎えている。
平成十八年(二〇〇六)末、東京都の平成十九年度予算原案において、美術館改修のための調査設計費一億二千三百万円が計上され承認された。これにより、早ければ平成二十二年度より改修工事が開始される見通しとなった。前回のように建て直しとはせず、既設建築物の改修によって高機能化を実現する今回の計画では、老朽化した空調・給排水設備の更新に加え、設計当時から大きく様変わりしたニーズや館の基本方針を反映し、併せてバリアフリー化を実現するための具体的方策が、東京都主宰の「都立文化施設のあり方検討会」ほかにおいて議論されつつある。
開館八十周年を迎えた東京都美術館の新たなあり方を模索し、次の時代に繋げようとする壮大なプロジェクトが、今まさに開始されようとしている。
(東京都美術館学芸員)
本稿を執筆するにあたり、過去において当館が発行した各種資料を使用したほか、以下の文献を参考とさせていただきました。ここに記してお礼申し上げます。
齊藤泰嘉『東京府美術館史の研究』平成十七年 筑波大学芸術学系齊藤泰嘉研究室
東京都現代美術館「開館十周年記念 東京府美術館の時代」展図録 平成十七年
藤田一人「ナショナルギャラリー(仮称)とは何か?」
http://art-v.jp/tenpyo/webtenpyo/fujita/fuji-1.html
春秋の展覧会シーズンを中心に、毎年変わらぬ盛況が館の内外を包んできた東京都美術館であったが、その光景も今またさらに大きく変貌を遂げようとしている。平成十八年(二〇〇六)五月、開館八十周年を祝して、「東京都美術館八十周年記念祭」を館主催事業として実施した。「回顧・感謝・未来」をテーマに掲げたこの記念祭は、八十周年を迎えた美術館の誕生日を祝うという趣旨ではあったが、それと同時に、東京都美術館がこれまで果たしてきた役割と意義を改めて検証し、来るべき時代に対する新たな美術館のあり方を探るという意味合いも込められていた。これは、平成十九年(二〇〇七)一月にオープンする、国立新美術館との機能分化を如何なるかたちで実現し得るかという、館の歴史始まって以来の大変革に対する意識喚起の場でもあった。
国立新美術館の開館により、日展・二科展はじめ三十あまりの公募団体が活動拠点を当館から六本木に移すこととなった。同時に、築後三十年を経過し、老朽化が進行した建物の改修も焦眉の急の課題であり、開館八十周年を迎えた東京都美術館は、あらゆる意味で節目を迎えている。
平成十八年(二〇〇六)末、東京都の平成十九年度予算原案において、美術館改修のための調査設計費一億二千三百万円が計上され承認された。これにより、早ければ平成二十二年度より改修工事が開始される見通しとなった。前回のように建て直しとはせず、既設建築物の改修によって高機能化を実現する今回の計画では、老朽化した空調・給排水設備の更新に加え、設計当時から大きく様変わりしたニーズや館の基本方針を反映し、併せてバリアフリー化を実現するための具体的方策が、東京都主宰の「都立文化施設のあり方検討会」ほかにおいて議論されつつある。
開館八十周年を迎えた東京都美術館の新たなあり方を模索し、次の時代に繋げようとする壮大なプロジェクトが、今まさに開始されようとしている。
(東京都美術館学芸員)
本稿を執筆するにあたり、過去において当館が発行した各種資料を使用したほか、以下の文献を参考とさせていただきました。ここに記してお礼申し上げます。
齊藤泰嘉『東京府美術館史の研究』平成十七年 筑波大学芸術学系齊藤泰嘉研究室
東京都現代美術館「開館十周年記念 東京府美術館の時代」展図録 平成十七年
藤田一人「ナショナルギャラリー(仮称)とは何か?」
http://art-v.jp/tenpyo/webtenpyo/fujita/fuji-1.html



