美術館の概要

沿革

年表

1921(大正10)年
3月
北九州の実業家・佐藤慶太郎氏から100万円の寄付
1926(大正15)年
5月
東京府美術館開館(設計は岡田信一郎。東京都美術館創立の日 5月1日)
1943(昭和18)年
10月
美術団体等による新作発表のほか、作家の回顧展や国内外の名品を紹介する展覧会を開催
都制施行により東京都美術館と名称変更
1965~1967
(昭和40~42)年
建物老朽度調査を実施
1968(昭和43)年
美術館建設準備委員会を設置
1972(昭和47)年
新館建設工事着工(設計:前川國男建築設計事務所)
1975(昭和50)年
3月
工事完了
9月
新館開館。貸館中心だった事業を自主事業として企画展の開催、美術文化事業、美術図書室の運営等を実施し、作品収集にも力を注ぐ
1977(昭和52)年
3月
旧館取り壊し工事及び旧館跡地造園工事完了
1994(平成6)年
4月
全収蔵作品及び美術図書資料を東京都現代美術館に移管(野外彫刻等の立体作品12点を除く)。以降、報道機関との協力による共催展と、美術団体等による公募展を活動の柱とする
1995(平成7)年
3月
東京都現代美術館開館
1996(平成8)年
4月
東京都教育委員会から(財)東京都教育文化財団(後に東京都生涯学習文化財団へ名称変更)へ管理運営が委託
1998(平成10)年
9月
ミュージアムショップがオープン
2002(平成14)年
4月
(財)東京都生涯学習文化財団から(財)東京都歴史文化財団へ管理運営委託先を変更
2006(平成18)年
4月
(財)東京都歴史文化財団が指定管理者として3年間管理運営を受託
5月
開館80周年記念祭を実施
2009(平成21)年
4月
(財)東京都歴史文化財団が指定管理者として8年間管理運営を受託
2010(平成22)年
4月
(財)東京都歴史文化財団が公益財団法人へ移行
施設設備の老朽化のため大規模改修工事(設計:前川國男建築設計事務所)を実施。約2年間休館
5月
リニューアル準備室を旧坂本小学校内(台東区下谷)に開設
2011(平成23)年
7月
東京都現代美術館から彫刻作品12点、書作品36点を再移管
11月
ロゴ・シンボルマークを制定(デザイン:吉岡徳仁デザイン事務所)
2012(平成24)年
3月
博物館法による博物館相当施設に指定
4月
リニューアルオープン(企画棟を除く)。ユニバーサルデザインを採り入れ、展示室の環境改善を行い、レストランやショップを充実。新たな管理運営方針のもと、多様な自主企画の展覧会やアート・コミュニケーション等の事業を展開
6月
リニューアル記念特別展「マウリッツハイス美術館展」オープン(企画棟を含め全面オープン)
2013(平成25)年
10月
リニューアルオープン記念事業の一つ「新伝統工芸プロデュース『TOKYO CRAFTS & DESIGN 2012』」が、2013年度グッドデザイン賞を受賞

閉じる

1. 東京府美術館開館 ―日本初の公立美術館

1. 東京府美術館開館 ―日本初の公立美術館


◎高まる世論
東京都美術館は「東京府美術館」として生まれました。1926(大正15)年、大正が終わり、昭和が始まった年です。このころ上野公園では、9月に院展(日本美術院)と二科展(二科会)が、10月には文展(文部省美術展覧会)がすでに開催されていました。やがて東京府美術館(以下、府美術館)がこれらの会場となります。秋に展覧会が多く開かれたことから、「芸術の秋」の由来になったともいわれています。
府美術館ができるまでは、日本には公立の美術館がありませんでした。「ヨーロッパの都には美術館があり、文化のシンボルとして自国をアピールしている。美術館のひとつでもなければ西洋に後れをとる」、こうした世論が新聞各紙をにぎわせていました。
◎芸術家の晴れ舞台
いつでも美術にふれられる場がほしい――。長年の悲願は、たったひとりの実業家の篤志によって実現しました。北九州の石炭商・佐藤慶太郎が建設資金の全額100万円(現在の32億円相当)を東京府に寄付しました。石炭商として決して大手ではない佐藤は、アメリカの実業家カーネギーに倣い、全財産の半分を社会のために使ったのです。
1926(大正15)年5月1日、府美術館は開館します。政府による官展から在野の美術団体を問わず、芸術家の発表の場となりました。ここに作品が飾られることは、芸術家として認められたことを示します。その晴れがましさは格段であったと、当時の府美術館の建物(以下、旧館)を知る人たちは語ります。ヨーロッパの神殿を思わせる列柱と仰ぎ見る大階段。そのクラシカルな風貌と相まって、「美術の殿堂」と称されました。
東京府美術館
東京府美術館(竣工:1926年/設計:岡田信一郎)
◎ミュージアムかギャラリーか
府美術館が構想されていたころ、画家・石井柏亭は、そのモデルをパリのグラン・パレに求めていました。巨大なギャラリー(展示場)です。建設資金を寄付した佐藤慶太郎の希望は、アートミュージアムでした。古美術品の保護と作品の体系的な収集、それらを常設展示できる施設です。美術関係者も期待していました。しかし東京府の方針は、展示を本位とするギャラリーでした。
ギャラリー本位でスタートした府美術館は、まもなく自主企画展を実施し、収蔵作品も年々増加。次第にミュージアムを志向していくことになります。
佐藤慶太郎氏
◎コラム
佐藤慶太郎氏について
1868(明治1)年~1940(昭和15)年。
福岡県若松市(現在の北九州市若松区)に生まれた実業家。「石炭の神様」と呼ばれた一方、奨学金の創設や病院への寄付、生活改善の研究・教育等、公共のために私財を投じたことでも知られています。100万円の寄付により東京府美術館の創設が実現しました。この功績を讃え、開館時から彫刻家・朝倉文夫による胸像を設置してきました。2012(平成24)年のリニューアルオープンを機に、「佐藤慶太郎記念 アートラウンジ」を設け、当館に多大な貢献をした佐藤氏の功績を後世に伝えていきます。

閉じる

2. 旧館時代 ―近現代美術史の合わせ鏡

2. 旧館時代 ―近現代美術史の合わせ鏡


◎群雄たちの同舟
東京府美術館(以下、府美術館)は、官展や美術団体、新聞社などによる展覧会の会場となりました。そのため美術界と社会の情勢が色濃く反映されることになりました。展覧会の軌跡をたどると、日本の近現代美術の歴史が合わせ鏡のように映し出されます。
府美術館が生まれた1926(大正15)年ごろ、美術界は政府による官展と在野の団体がしのぎを削っていました。府美術館のこけら落としとなった「聖徳太子奉賛美術展覧会」では、官展と在野の各会から1000点あまりが出品。「群雄割拠状態にある美術界が久しぶりに呉越同舟して予想以上の成果を挙げた」と評されました。
このころヨーロッパの前衛美術が日本に波及し、未来派を紹介した東郷青児、野獣派に感化された佐伯祐三らの最先端の作品が、府美術館で発表されてゆきます。
東京府美術館彫刻室の展示風景
東京府美術館彫刻室の展示風景
◎世界の美術と日本の伝統文化の紹介
世界の名品や現代美術の紹介も、府美術館の役割となりました。1928(昭和3)年の「大原孫三郎氏蒐集泰西美術展覧会」は、ヨーロッパ絵画のほかエジプトやペルシャの美術など、倉敷の大原美術館の基礎となったコレクションを展示しました。1932(昭和3)年の「巴里―東京進行美術展」では、ピカソやエルンスト、タンギーなど前衛絵画116点が出品されています。
また日本の伝統文化の発表の場ともなりました。書家・豊道春海らの尽力で開館の年から書道展を実施。各地の美術館で書が発表されるきっかけとなりました。「国風盆栽展」は1934(昭和9)年からスタート。その芸術性を評価し、美術館での開催を後押ししたのが、彫刻家・朝倉文夫でした。
◎戦争の影響と美術団体展の復活、そして「現代美術」の胎動
1930年代後半、日本が中国大陸へ進出すると、梅原龍三郎などが派遣され、彼の地を描いた作品を発表しました。戦時下には大日本陸軍従軍画家協会が発足し、藤田嗣治らが参加。戦争記録画の展覧会が開催されました。こうした絵画は、第二次世界大戦後(以下、戦後)にGHQが集め、東京都美術館(※)に一時保管されることになります。
戦後、文部省は官展の再開をめざし、1946(昭和21)年には日本美術展覧会(日展)を開催。美術団体も相次いで再建されました。しかし出品していた団体展から離れて独自に活動する作家も現れます。岡本太郎はその一人です。
1960年代には既存の美術表現を打ち破る動きが加速します。「読売アンデパンダン展」では、赤瀬川原平ら「反芸術」を標榜するグループの作品に会場は熱狂のるつぼと化しました。1970(昭和45)年開催の第10回日本国際美術展「人間と物質」も、新しい美術表現を紹介する伝説的な展覧会となりました。東京都美術館(以下、都美術館)は「殿堂」であったがゆえに、既成概念を打ち破ろうとするエネルギーが炸裂する場となりました。

※東京府美術館:1943(昭和18)年10月の都制施行により、東京府美術館から東京都美術館と名称変更された。

閉じる

3. 森に溶け込む美術館 ―新館開館

3. 森に溶け込む美術館 ―新館開館


◎仰ぎ見る殿堂から地中に潜る建築へ
「この美術の殿堂は、決して満足すべきものではない。まず『暗い』。それから『汚い』。また『うるさい』(床を踏む音)。さらに夏暑くて、冬寒く、換気不十分」と、美術評論家の竹田道太郎は語っています。
1960年代後半、東京都美術館(以下、都美術館)を使用する団体数は100を超え、年間の入館者が100万人を上回りました。会場は手狭になり、観覧環境は悪化。建物の構造と耐久性を調査すると、地震時に十分に安全が確保できず、取り壊しはやむなしとの結論に至ったのです。
東京都は1968(昭和43)年に新館建設の準備委員会を設け、次の3つの機能を掲げました。
(1)美術館が主体性をもって企画展を進め、現代美術の秀作を収集し、常設展示を充実させる「常設・企画機能」
(2)公募団体の要請に応えられる規模と設備を整え、作家の技量を発揮できる場とする「新作発表機能」
(3)都民の文化活動を促進するために、美術研究、創作活動、美術普及の場を提供する「文化活動機能」
新館の設計を任されたのは、建築家・前川國男。上野公園内にあるル・コルビュジエによる国立西洋美術館の設計を手伝い、東京文化会館を設計していました。公園内は風致地区であることから建物の高さは15メートルに制限され、総面積の60%近くを地下に設けることになりました。中央に広場(エスプラナード)を配したうえで、建物は企画・常設展示ブロック、公募展示ブロック、文化活動ブロックに独立。三棟が広場を取り巻くように配置しました。
東京都美術館
東京都美術館(竣工:1975年/設計:前川國男)
◎公立美術館の原形として
新館は、府美術館の建物(以下、旧館)の隣に建てられ旧館解体までのつかの間、前川國男による新館が建ち並び、その姿は壮観であったといいます。重厚な階段を一つひとつ高みへと上がりつめていく旧館と、地下に設けられたメインエントランスへ緩やかに階段を下りていく新館。対照的な動線は、時代や思想の移り変りを象徴するかのようです。
新たな都美術館の活動は、自主事業と貸館事業に大別されました。専門職として学芸員が配置され、自主事業では、国内外の近現代美術の名品を紹介する企画展を開催。常設展示こそ実現しませんでしたが、作品収集にもより力を注ぎ、収蔵作品展を精力的に開催しました。
また、美術文化事業として造形講座や公開制作を行い、展示・収集事業と有機的に関連をもたせました。この取組は現在の美術館ワークショップの源流とされています。1976(昭和51)年には日本初の公開制の美術図書室が館内にオープンし、専門の司書も配されました。
一方の貸館事業は、公募展示室、アトリエ・講堂などの諸施設の貸出です。こうした機能の多くは、今日の公立美術館で広く見られ、都美術館の新館はその先駆けのひとつです。
新館開館時(中央背景に見えるのが旧館)
新館開館時(中央背景に見えるのが旧館)

閉じる

4. 美術団体と上野の杜 ―アーティストが生まれる場

4. 美術団体と上野の杜 ―アーティストが生まれる場


◎公募団体展と美術館デビュー
現在、最先端のアートは、ギャラリーやアートフェア、アートフェスティバルなどで発表されるようになりました。従来の公募団体展(以下、団体展)には、作品の類型化、古い形式への固執といった批判があることは否定できません。新聞の美術欄に団体展がほとんど取り上げられなくなったのは、象徴的です。
しかし、団体展で見られる美術作品は、わが国の同時代の美術であることはまちがいありません。東京都美術館(以下、都美術館)では、世界の名品を紹介する展覧会を年4回、入場者は平均100万人(年間)。一方、団体展の観覧者は年間140万人ほど。日展や二科展などが国立新美術館に移る前は170万人に達していました。美術団体の層は厚く、連綿と作家を生み、作品を世に送り出し、相当数の鑑賞者が存在します。
美術館デビューを果たすのは、作家だけではありません。はじめて訪れた美術館が都美術館という人も少なくありません。親に連れられて世界の名品をみた、知り合いが団体展に出品した、自分の書や絵画が児童部門に飾られたという人も多く見られます。
毎年1月から3月にかけて美術大学や芸術系高校の卒業制作展(以下、卒展)が続きます。東京藝術大学は、東京美術学校だった1942(昭和17)年から、現在も都美術館を卒展のメイン会場としています。1978(昭和53)年からは、武蔵野美術大学、多摩美術大学、女子美術大学、日本大学芸術学部、東京造形大の連合による卒業制作の選抜展が開かれていました(現在は、国立新美術館で開催)。
◎「上野の杜」という意味
都美術館は、現代美術の発表・鑑賞の場を標榜してきました。その機能の一部は、1995(平成7)年に開館した東京都現代美術館(江東区木場)へと受け継がれました。これまで形成したコレクションと企画展や教育普及活動、公開制の図書室といった機能が移管されました。2007(平成19)年には国立新美術館(港区六本木)がオープンし、日展、二科展、国展などの大規模な団体展は会場を移すことになりました。
都美術館は、時代とともに位置づけが変わりましたが、変わらないものがあります。上野という特有の歴史をもつ場所にあることです。数多くのミュージアムやホール、大学が集積し、芸術や文化をめぐるさまざまな人と物事にふれあうことができるのです。
上野公園(東京都・台東区、2013年5月撮影)
上野公園(東京都・台東区、2013年5月撮影)

閉じる

5. 世界の名品と共催展 ―報道機関とつくる出会いの場

5. 世界の名品と共催展 ―報道機関とつくる出会いの場


◎共催による展覧会
今日までの東京都美術館(以下、都美術館)を特徴づける事業のひとつに共催展が挙げられます。新聞社等の報道機関との企画共催による展覧会は戦前から行われていました。収蔵品が東京都現代美術館に移管されて以降、とりわけ報道機関との共同主催によるバラエティに富んだ展覧会が、公募団体展と並ぶ事業の柱のひとつなりました。
「ピカソ展」(1977(昭和52)年)、「ヘンリー・ムーア展」(1986(昭和61)年)、「ボロフスキー展」(1987(昭和62)年)といった西洋美術の作家の個展。そして、「オルセー美術館展 モデルニテ=パリ・近代の誕生」(1996(平成8)年)、「永遠の美と生命 大英博物館 古代エジプト展」(1999(平成11)年)、「ウィーン美術史美術館蔵 栄光のオランダ・フランドル絵画展」(2004(平成16)年)など、世界に名だたる美術館とその優れたコレクションを紹介する展覧会が数多く開催され、多数の来館者から好評を博してきました。
◎名品との出会いの場
海外まで足を運ばなければ鑑賞することのかなわない傑作の数々を「間近で味わうことのできる経験」は、インターネットをはじめ、さまざまなメディアが高度に発達している今日においても、得難いものであることには変わりありません。
「世界と日本の名品に出会える美術館」として、かけがえのない出会いの場を提供し、広く社会にアートを伝える。その普及活動としての共催展の役割と魅力は、今後とも輝いていくにちがいないでしょう。
約2年間の改修工事を経て、2012年4月にリニューアルオープン(2012年5月撮影)
約2年間の改修工事を経て、2012年4月にリニューアルオープン(2012年5月撮影)

閉じる